あの上人ならば仔細《しさい》を申すことはない」との事であった。そこで法然が召されて単に御経衆に列るだけではない、一座の先達を勤むることに誰一人異議がなかったのである。
 固《もと》より法然は天台門から出た人ではあるが、今は自ら浄土の法門を開いた別宗の人の形になっている。それが特に召されて第一座を占め、先達を勤むることになって不足の云いようがないということは前にも後にも例のない程の圧倒的な人格の力といわねばならぬ。法然はこれを固く辞退したけれども勅定が頻《しき》りに降って辞するに由なくその勤めを行うことになった。
 その時の席順は正面の東西に席を設けて東の第一座が法然上人、西の第一座が後白河法皇、法然の次が入道相国(太政大臣師長)それから叡山の良宴法印以下が各々《おのおの》その位によって列座したのである。昔奈良朝の時、行基菩薩はあれ程の大徳であったけれども、世俗の法によって婆羅門《バラモン》僧正の下に着座をした。この例によると叡山を代表して良宴法印が法然上人の上座に着くべきであるが、法皇の別勅によって法然上人が第一座に着かせられ、山門の代表者も甘んじてそれに席を譲ることになった。太政大臣
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