時、法然が御善知識に召されて参った時に御室も御参会があって、その時に又右の話が出て、
「こうして在京の間に望みを叶えて貰えまいか」と云われた。
 法然は、
「斯様《かよう》な折は物事忙わしくもあり、又お召の時も御座りましょうから、中間でまとまりのないことを申上げるも不本意でござりまする故そのうち静かに参上仕りましょう」とてそのついでも空しく止んで了った。その後幾ばくもなくて御室もお亡くなりになり、終《つい》にその望みは遂げられずに了ったが、斯くばかり懇切に志を尽されたのも法然が諸宗に達していたという為であった。

       五

 法然の言葉に、
「学問というものは創見ということが極めて大事である。師匠の説を伝習するのは容易《たやす》いことである。そこでわしは諸宗を学ぶのに諸宗自らの章疏《しょうしょ》を見て心得た」ということを云っている。詰《つま》り法然のはその道のその時代の学者に就て習い覚えた学問ではなくて、その学者を超越してもっと溯《さかのぼ》った源頭から自から読み得た処の学問であった。そこでその宗、その道の権威者に会うても更に恐るる処がなく、名目だけは彼等から聴き伝えても、そ
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