不足である。法性寺の空阿弥陀仏は愚癡《ぐち》であるけれども、念仏の大先達として普く化道が広い。わしが若し人身を受けたならば大愚癡の身となって、念仏勤行の人となりたい」といわれた。
 空阿弥陀仏は法然をほとけの如く崇敬していて右京権大夫隆信の子左京大夫信実朝臣に法然の真影を描かせ一期の間本尊と仰いでいた。知恩院に残っている絵像の真影がそれである。
 往生院の念仏房(又念阿弥陀仏)は叡山の僧侶で天台の学者であったが、これも法然の教えを聴いて隠遁して念仏を事としていたが、法然滅後念仏に疑いが起ってもだえていたが、或る夜の夢に法然を見て往生の安心が出来たという。承久三年嵯峨の清涼寺が焼けたのをこの聖が造営した。その西隣りの往生院もこの聖が建てたものである。建長三年十一月三日年九十五で大往生をとげた。
 真観房感西(進士入道)は十九の時はじめて法然の門室に入り、多年教化を受けていたが、撰択集を著わす時もこの人を執筆とした。又法然が外記大夫と云う人より頼まれて導師となった時も一日を譲ってこの真観房に勤めをさせたようなこともあったが、惜しいかな正治二年|閏《うるう》二月六日生年四十八歳で法然に先立っ
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