寺に住んでいた坊さんであったが、叡山を辞して都に出て法然に会って一向専修の行者となって経も読まず礼讃も行わず、称名の外には他の勤めなく在所も定めず、別に寝所というてもなく、沐浴便利の外には衣裳を脱《と》かず、それでも徳があらわれて人に尊まれた。ふだん四十八人の声のよいものを揃えて七日の念仏を勤行し、諸々《もろもろ》の道場至らざる処なく、極楽の七重宝樹《しちじゅうほうじゅ》の風の響、八功徳池の波の音をおもって風鈴を愛し、それを包み持ってどこへでも行く度毎にそれをかけた、又常に、
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如来尊号甚分明《にょらいそんごうじんぶんみょう》。十方世界普流行《じっぽうせかいふるぎょう》。但有称名皆得往《たんうしょうみょうかいとくおう》。観音勢至自来迎《かんのんせいしじらいごう》。
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の文を誦して、「ああ南無極楽世界」といって涙を落したという。
念仏の間に文讃をいろいろ誦することの源はこの人からはじまった。四天王寺の西門内外の念仏はこの聖《ひじり》が奏聞を経てはじめておいたものである。
法然が常に云うには、
「源空は智徳をもって人を教化せんとするがなお
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