あらば尋ねおききなさるがよい。但し源空が生きている間は秘密にして置いて他見せしめないように、死後の流行は已《や》むを得ない事だが」
といわれたので、急いで尊性、昇蓮等に助筆をさせて、それを筆写し、原本は返上されたことがある。
並榎の竪者《りっしゃ》定照が訴えにはじまって法然の門徒が諸国へ流されるうちに、この律師は最も重いものとして見られていて、自分も覚悟していたが、果して配所は奥州ということであって森入道西阿《もりのにゅうどうさいあ》というものが承って配所へ送ることになり、嘉禄三年七月五日都を進発したが、森入道は深く律師に帰依していたので、そっと門弟の実成房というものを身代りに配所へやって、律師は西阿が住所相模の国飯山へ連れて行き、そこで大いに尊敬して仕えていた。同年の冬、病にかかった時筆を執って身の上のことを書き起したが、それを羈中吟《きちゅうぎん》という。間もなく春秋八十歳で念仏往生を遂げた。
この律師が鎌倉を立って飯山へ下った時に武州|刺史朝直朝臣《ししともなおあそん》、その時二十二歳、相模四郎といったが、律師の輿の前で対面して仏道のことを尋ねている。刺史朝直朝臣はその教え
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