草庵を結んで住んでいると、僧達の法服が破れてみにくかったから弟子の法蓮房に京都の檀那へ云い遣わして装束を十五具整えて施された。寺僧はよろこんで、臨時に七日の念仏を勤行《ごんぎょう》した。
 またこの寺には一切経がないということを聞いて法然は自分所持の一切経一蔵を施入した処、住僧達喜びの余り老若七十余人華を散し、香をたき、幟《はた》を捧げ、蓋《きぬがさ》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]してお迎えをした。この経論開題供養《きょうろんかいだいくよう》の為に聖覚法印を呼び招くことになった。法印はこの使命を受けて師弟再会を喜びながら導師を勤めたが、その時の表白文が残っている。
 かくて勝尾寺の隠居も最早四カ年になった。京都への出入がまだ許されない。処が建暦元年夏の頃上皇が八幡宮に御幸のあった時一人の倡妓があって、王者の徳失のことを口走り出した。
 このことが法然流罪に関連して評議された。そのうち又上皇が夢を御覧になったり、蓮華王院へお詣りになった時、何者とも知れず衲衣《のうえ》を着た高僧が近づいて法然の赦免について苦諫奏上することなどがあって驚かれている
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