う僧は矢張り法然のお弟子となって念仏の行をしていたが、熊野山へまいっている間に法然が流されるという話を聞いて急いでその跡を追おうとしたが俄に重病に罹《かか》ってうごけなくなった。権現に祈ると、「死期はもう近づいている。お前は安らかに往生するがよい。法然上人は勢至菩薩の生れかわりだからお前はそう心配することはない」というおつげがあったから安心して往生を遂げたということである。
 法然はこの国にあって化道《けどう》の傍ら国中の霊地を巡礼して歩いたが、そのうち善通寺にも詣でた。この寺は弘法大師が父の為に建てられた寺であるが、その寺の記文の中に、「ひとたびももうでなん人は。かならず一仏浄土のともたるべし」とあるのを見て、この度の思い出はこのことであるといって喜んだ。

       三十六

 藤中納言光親卿は、月輪殿の最後の頼みによって様々に、法然上人恩免の運動をして見たけれども、叡慮お許しがなかった。しかし上皇が或る夢を御覧になったことがあり、中山相国(頼実)もさまざまに歎いて門弟のあやまちをもって咎を師範に及ぼすことの計り難いことをおいさめ申すことなどもあって、遂に最勝四天王院供養の折大
前へ 次へ
全150ページ中114ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング