かがや》いたのが袂に宿ると夢を見てあやしんでいたのに法然が着いたと聞いて、このことだと思い合わせ、薬湯を設け、美膳をととのえ、さまざまにもてなした。ここで法然は念仏往生の道を細かに授け、中にも不軽大士《ふぎょうだいじ》の故事を引いて、如何なることを忍びても、人を勧めて念仏をさせるようにしなさい。敢て人の為ではない。といって教えた。
讃岐の国子松の庄に落ついて、そこの生福寺という寺に住し、そこで教化を試みたが、近国の男女貴賤市の如くに集まって来る。或は今迄の悪業邪慳《あくごうじゃけん》を悔い改め、或は自力難行を捨て念仏に帰するもの甚だ多かった。「辺鄙の処へ移されるのもまた朝恩だ」と喜ばれたのも道理と思われる。[#「思われる。」は底本では「思われる」]この寺の本尊阿弥陀如来の脇士として勢至の像を法然自から作って文を書いて残しておいたということである。
法然が流された後というもの、月輪殿が朝夕の歎き他所《よそ》の見る目も傷わしく、食事も進まず、病気もあぶないことになった。藤中納言光親卿を呼んで、
「法然上人の流罪をお救い申すことが出来ないで、後日を期し、御気色を窺って恩免をお願いして見よ
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