、在俗の形ながら、法名を継ぎ戒を受け、袈裟《けさ》をたもちたいということを法然に頼んで来たから法然もその志をあわれんで、禁戒《きんかい》の旨を記してやり、袈裟もやり、尊願という法名も附けてやった。その後法然所持の念珠を所望する程に熱心であったが、愈々実朝が亡くなった時赦しが出て出家をとげ、法然からつけて貰った尊願という法名をその儘に相継していた。
 法然が亡くなって後、日に日に極楽が恋しくなり、自分も年をとるし、この世が厭《いと》わしくてたまらず、法然からの手紙をとり出して見ては、早く私をもお迎え下さいましといったけれども、なかなか丈夫で死ねないで空しく年月を送る心持に堪えられなかったから、仁治三年十月二十八日から浄勝房以下の僧達を集めて、三七日《みなぬか》の如法念仏をはじめ十一月十八日に結願《けちがん》の夜半に道場でもって高声念仏し、それから自分で自分の腹を切って五臓六腑を取り出し、練大口《ねりおおぐち》に包んで、そっとうしろの川へ捨てさせた。夜半の事だから誰れも知っているものはない。そして置いて僧達に向って、
「斯様《かよう》に出家をして、家に籠《こも》って大臣殿の御菩提をとぶらい申すにつけても、主君のお名残《なごり》も恋しく、師の法然上人も極楽できっと待っているとの仰せの程も思い合わされます。釈尊も八十で御入寂《ごにゅうじゃく》になり、法然上人も八十でもう御往生、わしもこれで満八十じゃ。八十を上下にした第十八は念仏往生の願いの数であり、今日は又十八日に当る。如法念仏の結願に当って、今日往生したならまことに殊勝の往生が出来るであろう」
 と物語った。聴いている人は、為守にその用意のあることを知らないから、何気なく、
「左様でござる。今日のような日に往生が出来たら芽出たいことにちがいありません」といった。
 ところが、その夜もあけて、十九日になったけれども、腹を切って五臓六腑を捨ててしまった尊願が死にも、往生もしない、立派に生きている。しかも苦痛も何もなく、やがて死ぬような心持さえもしないようだから、子息の民部大夫守朝を呼んで、切った腹を引きあけて見せて、
「この通り往生の心で腹を切ったが、死にもせねば苦痛もない。五臓六腑を取り捨ててしまったが、たぶんまだ、まろきも[#「まろきも」に傍点]というものが残って、それで死に切れないものだろうと思う。よく見てくれ」
 といったので、はじめて人が気がついて驚いたのである。そこで云われるままに、守朝は父の傷あとをよく見て、
「まことに驚き入ったことでございます。しかし仰せによってよく見ますと胸先きの処にまろきもがあるようでございます」
 といったので、為守は手を入れて引ききって投げ捨てて、
「ああこれが残っていたから死にきれなかったのだろう」
 人々は驚きあわてて涙を流さぬものはない。けれども当人は尚少しの痛みもなく念仏をし続けていたが、七日経ってもまだ何ともない。「これはうがい[#「うがい」に傍点]の水が通うからだろう」といってうがいを止めて塗香を使ったが気力が更に衰えない。やがて傷も治ってしまった。その後は時々行水をしたそうである。かくて正月一日になっても死なないから法然の手紙を取り出して読み続けていた。正月十三日の夢に、来る十五日|午《うま》の刻には迎えに行くといって法然が告げる夢を見て、こんどこそはといって喜びの涙を流した。その時に上人から貰った袈裟をかけ、念珠を持ちて、西に向って端座合掌、高声念仏午の正中に安々と息が絶えた。腹を切ってから水漿《のみもの》を断って五十七日の間気力が常の如くして痛むところなく、ついで往生をとげたということは信じ難い程不思議のことであった。自害往生、焼身往生、入水《じゅすい》往生、断食往生等はその門徒に於ても誡め置かれたことであり、余人の行うべき行ではないが、信心の力の奇特は思い見るべきである。

       二十九

 比叡山西塔の南谷に鐘下房少輔《しょうげぼうしょうゆう》という頭脳のよい僧侶があったが、弟子の稚子《ちご》に死なれて眼前の無常に驚き、三十六の年遁世して法然の弟子となり、成覚房幸西といったが、浄土の法門をもと習った天台宗に引き入れて、迹門《しゃくもん》の弥陀《みだ》、本門の弥陀ということを立てて、十劫正覚《じゅうこうしょうがく》というのは迹門の弥陀のこと、本門の弥陀は無始本覚《むしほんがく》の如来であるが故に、われ等が備うるところの仏性と全く違ったところはない。この謂《いわ》れをきく一念だけでよろしい。多念の数遍の念仏は甚《はなは》だ無益のことだといって自立して「一念義」というのを立てた。法然これを聞いて、これは善導和尚の心にも背いている。甚だよろしくないといって制しおさえたけれども聞かないで、尚この一念義を主張したから法然は幸西
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