八月、蓮生は、
「わしは明年の二月八日往生する。もしかく申すことに不審があらば、来て見るがいいぞ」
 ということを武蔵国村岡の市に札を立てさせた。それを伝え聞く輩が遠近《おちこち》より熊谷の処へ何千何万という程押しかけて来たが、愈々その日になると、蓮生は未明に沐浴して、礼盤に上って、高声念仏の勢たとうるにものなく、見物の者が眼を澄まして眺めていると、暫くあって、念仏を止め眼を開いて、
「さあ皆の者、今日の往生は少し延期だ、来《きた》る九月四日には必ず往生をして見せるから、その日になってやっておいで」
 見物の者|呆《あき》れて、あざけりながら帰って行く。妻子眷属は世間へ対して面目ないことだと、歎いたが、当人は一向平気で、
「なあに、阿弥陀如来のお告げで、延ばしたのだ。自分の了見ではない。九月には間違いないよ」
 といっていたが、やがて春夏も過ぎ、八月の末になって少し病気であったが、九月一日空に音楽を聞いて後更に苦痛が無くなって身心安楽であった。四日の後夜に沐浴して漸くまたまた臨終の用意をする。遠近の人集まること、また集まること、市の立った様である。やがて巳《み》の刻になると、かねて法然から賜わった弥陀来迎の三尊|化仏菩薩《けぶつぼさつ》の形像を一軸にした秘蔵の品を掛け、その前へ端座合掌し、高声念仏《こうじょうねんぶつ》甚だ盛んで、やがてこんどは相違なく、その念仏の声が止まると一緒に息が止まったが、その時口から五六寸ばかりの光が出て紫の雲がたなびき、「音楽」が聞え、さまざまの奇瑞があって五日の卯《う》の時まで続き、翌日入棺の時もさまざま霊異があって、成程これならば上品上生の往生疑いなかろうと皆がいった。

       二十八

 武蔵国の御家人、津戸三郎為守《つのとのさぶろうためもり》は、生年十八歳の時、治承四年八月に頼朝石橋山の合戦の時、武蔵の国から走《は》せまいり、安房《あわ》の国へも従い、その後所々の合戦に名を挙げたが、建久六年二月、東大寺供養の為に頼朝が上洛の時、為守は、三十三歳でお伴をして行ったが、三月四日に京都に着き、その月の二十一日に法然の庵堂へ参って、合戦度々の罪を懺悔《さんげ》し、念仏往生の道を聴いてから法然の信者となり、本国に下ってからも念仏の行、怠りなかったが、或人が、
「熊谷入道や、津戸三郎は無学無智の坂東の荒武者で、他の学問や修行を教えたって仕方がないと見たから、そこで法然様が念仏ばかりでいいと仰言《おっしゃ》ったのだ。もう少し智恵のある人間に向っては法然様だって何も念仏に限るとはおっしゃりますまい」
 というのを、為守が聞いて腹を立てて、早速法然へ手紙でそのことの不審を訂《ただ》してやると、法然は、決してそんなことがある筈はない。念仏は一切衆生の為で、無智だの、有智だの、有罪無罪、善人悪人、持戒破戒等の区別があるべきものでないということを懇々と諭されている。
 その後為守は法然の門弟|浄勝房《じょうしょうぼう》、唯願房《ゆいがんぼう》等の坊さん達を関東の方へ頼んで来て、それを先達として不断念仏をはじめ行い出した時、時の征夷将軍(右大臣実朝)に讒言《ざんげん》する者があって、
「津戸為守は、専修念仏を起して聖道の他の諸宗派を謗《そし》っている、不都合千万だ」そこで領守が召して糺問されるというような沙汰《さた》があったから、為守は驚いて、
「もし、そういう事がありましたら、どういう返事をしたらよいものか、むずかしそうな返答の言葉と、たとえの文句などを一つ仮名まじり文に書いて、くわしく教えていただきたい」
 ということを飛脚によって京都の法然の処へ尋ねて来た。そこで法然の返事には矢張り細々とその応答の仕方と浄土の要旨を教え越されている。
 そこで翌年四月二十五日に、信濃前司行光《しなののぜんじゆきみつ》(その時が山城民部大夫)の奉行で、津戸三郎の処へ御教書が下った。為守は、浄勝房、唯願房等の念仏者を連れて鎌倉の法華堂の前の二棟の御所という南向きの広廂《ひろびさし》に参っていると、津戸の郷内へ念仏所を建てて念仏を広めているということにつき、だんだんとお尋ねを蒙ったが、津戸三郎はかねてから法然より貰った手紙を頭に入れて、十分の試験勉強をしていたことだから無事に疑いが晴れ、その同行の念仏者も、専門の上から申開きが立派に立ったので、それからは専修念仏の行に於ては仔細あるべからずとお許しが出た。愈々《いよいよ》念仏の行に怠りがなかったから、建保七年の正月右大臣が逝《な》くなった時に、二位尼の計らいで、遺骨を為守の処へ渡されたので、偏《ひとえ》に右大臣実朝の菩提をとむらったということである。
 為守はこの通り二心なき念仏の信者であったが、同じことならば早く出家の本意をとげたいものだと思ったが、関東でお許しが出ないから
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