志がありとしても、まず六十巻を読んで後、その本意を遂げるがよかろう」
「まことに仰せの通りでございます。私が山林に行って閑居を願う心は永く名利《みょうり》の望みを止めて静かに仏法を修業しようとの為でございます」
 そこで生年十六歳の春、はじめて本書を開き三カ年を終て三大部に亙《わた》り得た。
 理解修業、妙理を悟ること師の教えに越えている。阿闍梨は愈々《いよいよ》感歎して、
「この上とも学問を努め、道行を遂げて天晴れ天台の棟梁となりなさい」と期待をかけて激励したけれども、その期待に添うべき返事は更になかった。なおこれ名利の学問であるわいと忽《たちま》ち皇円阿闍梨の許を辞して黒谷《くろだに》の西塔《さいとう》、慈眼房叡空《じげんぼうえいくう》の庵に投じた。これは久安六年九月十二日、法然十八歳の時のことであった。
「幼稚の時分からやや人がましくなりました今日に至るまで、父の遺言が耳に残って忘れられませぬ。私の出家登山は、名利の学問の為めではござりませぬ。永久に隠遁の心を遂げたいが為めでございます」と述べる。
 少年にして、早くも出離《しゅつり》の心を起したのは誠にこれ法然道理の聖《ひじり》であると慈眼房叡空は随喜して、法然房と号し、実名は最初の師源光の上の名と叡空の下の字をとって源空と名をつけられた。
 こうして法然といい、源空という生涯を通じてのよび名を十八歳の時叡山の西塔黒谷の慈眼房叡空の庵に於てつけられたのである。
 この叡空上人は大原の良忍上人《りょうにんしょうにん》の附属《ふぞく》円頓戒相承《えんどんかいそうじょう》の正統であって、瑜伽《ゆが》秘密の法に明かに当代に許された名師であった。

       四

 かくて法然は黒谷に蟄居《ちっきょ》の後は偏《ひとえ》に名利を捨て一向に出要を求めんと精進した。学問せんが為の学問でなく、確かに生死を離るべき道を求むるが為に学問した。一切経《いっさいきょう》を披《ひら》き閲《けみ》すること数遍に及び、自宗他宗の書物眼に当てないというものはなかった。
 或時天台|智者大師《ちしゃだいし》の本意を探り、円頓一実の戒体《かいたい》に就て、師の慈眼房と話をした。慈眼房は、
「心が戒体じゃ」という議論をたてる。法然は、
「性無作《しょうむさ》の仮色《けしき》が戒体でございます」という議論を立て、両々相譲らず、永い間議論をしていたが、慈眼房が腹を立てて、あり合せた木の枕を以て法然に打ちつけたから、法然は師の前を立ち出でて了ったことがある。それから慈眼房は独り考えること数尅《すこく》の後法然の部屋に来て申訳をする旨には、
「お前が云った処がやっぱり天台大師の本意であるわい。一実円戒《いちじつえんかい》の至極であるわい」といわれたことがある。
 保元元年、法然二十四の年、叡空上人に暇を乞うて嵯峨《さが》の清涼寺《せいりょうじ》に七日参籠のことがあった。法を求むるの一事を祈る為であった。この寺の本尊、釈迦善逝《しゃかぜんせい》は三国伝来の霊像である。
 法然は如何なる大巻の文と雖《いえど》も三遍それを見ると明かになる。諸教の義理をあきらめ、八宗の大意を窺い得てそれぞれの宗派宗派の先達《せんだつ》に会って自分の解釈を述べて見ると何れもそれを印可して、賞美しないものはなかった。
 清涼寺の七日の参籠を済せて、それから南都へ下り、法相宗の碩学《せきがく》蔵俊僧都《ぞうしゅんそうず》の処に至って普通の修業者の通りに御対面を申出で、大床にいた処を蔵俊僧都が何と思ったか明り障子をあけて内へ招き入れて対面し、法談に時を移した。宗義に就て不審を挙げられると僧都にも返答の出来ないようなことがあった。それを法然が試みに自分独学の推義を述べてみると僧都が舌を巻いて、
「お前さんはただ人ではない。恐らくは大権化の現われでござろう。昔の論主に会ったからとてもこれ程のことはあるまいと覚える。智恵深遠なること言葉にも云い尽せない」といって一生の間毎年法然に供養をしたということである。
 醍醐《だいご》に三論宗の先達で権律師《ごんりっし》寛雅という人があった。そこへ法然が訪ねて行って、自分の所存を述べて見ると、律師は総て物を云わないで聴いていたが、やがて内に立ち入って、文櫃《ふみびつ》十余合を取り出して法然の前に置き、
「ああ、わしが法門にはこれをつけてやるに足る人がない。それだのに君は既にこの法門に達している。これは自分の秘蔵の書物だが尽く君に奉る」といった。称美讃歎の程が思いやられる。進士入道阿性房《しんじにゅうどうあしょうぼう》等の人々が一緒に行ったが、このことを見聞して驚いて了った。
 又|仁和寺《にんなじ》に華厳宗《けごんしゅう》の名宗で大納言|法橋慶雅《ほっきょうけいが》という僧があった。仁和寺の岡という処に住んでい
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