たから、岡の法橋ともいわれていた。醍醐にも通っていたのか醍醐の法橋ともいわれていた。この人は法然の弟子阿性房が知っていた処から法然は華厳宗の不審を尋ね問わんとして阿性房を引き連れて訪問した処が、法橋がまず無雑作《むぞうさ》に云いだすことには、
「弘法大師の十住心《じゅうじゅうしん》は華厳宗によって作ったものである。このことを御室《おむろ》に申した処それは面白い議論である。早くもう少し研究して見るがよいと仰せられたから今考えている処だが」といわれた。
 初対面のことではあったけれども、どうも腑《ふ》に落ちない。学問の習いで黙《もだ》し難く法然はいった。
「どうしてあれは華厳宗によって作ったものでございましょう。大日経《だいにちきょう》の住心品《じゅうしんぼん》の心を以て作られたものと思います。第六の他縁大乗心《たえんだいじょうしん》は法相宗の意でございます。第七の覚心不生心《かくしんふしょうしん》は三論宗でございます。第八の一道無為心《いちどうむいしん》は天台宗でございます。第九の極無自性心《ごくむじしょうしん》は華厳宗でございます。第十の秘密荘厳心《ひみつしょうごんしん》は真言宗でございます」と云って弘法大師の十住心論のはじめ異生羝羊心《いしょうていようしん》から終りの秘密荘厳心まで一々その偈《げ》を誦して道理を述べ、弘法大師の主意と自分の解釈のしようを細かに申し述べると、法橋がそれを聴いて、縁にいた阿性房を呼んで、
「どうだ、お前これを聞いたか。この様に心得ていて往生が出来ないということがあるものか。俺はこの華厳宗を相承しているけれどもこれ程分明に判ってはいなかった。他宗の者から聴かされた智恵が、自宗で習い伝えた義理に立ち越えている」といって随喜感歎甚だしく、法談数刻の後、法然は特に乞うて華厳宗の血脉《けちみゃく》並に華厳宗の書籍などを渡された。この法橋は最後には、法然上人を招請して戒を受け二字を奉り、戒の布施には円宗分類《えんしゅうぶんるい》という二十余巻の文を取り出して、
「慶雅はこの外には持っているものはない。上人に外の物を差しあげても仕方がないと思うから」
 といって黒谷へ送り届けた。法然がその時云うよう、
「学問の妙理というものはこの通り帰すべきことには帰するものである。この法橋は華厳宗にとってはよき名匠であって、弁暁法印《べんぎょうほういん》もこの慶雅法橋のお弟子であるのに」と云われた。
 法然上人が諸宗に通達しているということが、人口に普《あまね》くなった上右の慶雅法橋が御室(鳥羽院第五の皇子|覚性法親王《かくしょうほうしんのう》)の御前で、
「拙僧も自門他門多くの学生達《がくしょうたち》に会いましたけれども、この法然房のように物を申す僧には会ったことがござりませぬ」と称美したのを聞かれて御室から法然を招かれ、
「天台宗に就て学びたいことがある」と仰せられたが、法然はそれを辞退して、
「天台宗は昔は型の如く伝受いたしましたけれども、今はただ念仏になって天台宗は廃学いたしました。山門には澄憲《ちょうけん》、三井には道顕《どうげん》などの名匠が居りますから、あの人達をお召しになってお聴き遊ばすが如何《いかが》かと存じまする」と申し上げると、
「それ等はみんな最早聴いている処であるから辞退の申訳にはならぬ」と重ねて頻《しき》りに仰せがあったけれども、法然は尚堅く辞退する。
「左様ならば念仏のことを学問したい。その序《ついで》に少々談義をしたいこともある」と仰せられたけれども、自然に延び延びになって月日を送られていたが、後白河法皇御最期の時、法然が御善知識に召されて参った時に御室も御参会があって、その時に又右の話が出て、
「こうして在京の間に望みを叶えて貰えまいか」と云われた。
 法然は、
「斯様《かよう》な折は物事忙わしくもあり、又お召の時も御座りましょうから、中間でまとまりのないことを申上げるも不本意でござりまする故そのうち静かに参上仕りましょう」とてそのついでも空しく止んで了った。その後幾ばくもなくて御室もお亡くなりになり、終《つい》にその望みは遂げられずに了ったが、斯くばかり懇切に志を尽されたのも法然が諸宗に達していたという為であった。

       五

 法然の言葉に、
「学問というものは創見ということが極めて大事である。師匠の説を伝習するのは容易《たやす》いことである。そこでわしは諸宗を学ぶのに諸宗自らの章疏《しょうしょ》を見て心得た」ということを云っている。詰《つま》り法然のはその道のその時代の学者に就て習い覚えた学問ではなくて、その学者を超越してもっと溯《さかのぼ》った源頭から自から読み得た処の学問であった。そこでその宗、その道の権威者に会うても更に恐るる処がなく、名目だけは彼等から聴き伝えても、そ
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