の義理会解《ぎりえかい》はこちらが遙に優れた処にいる。戒律の中川少将上人、法相宗の蔵俊、師の慈眼房皆一代のその道の権威者であったけれども、後進の法然に舌を巻いたのはその故であった。俗に云えば法然程よく諸宗を見破っている者はなく、法然程公平に諸宗を判釈し得る者はなかったのである。
 法然が弘法大師の十住心論を難じていた時のこと、それは源平の乱より先き嵯峨に住んでいた時分のことであった。或夜こんな夢を見たことがある。
 法然が用事あって、他行《たぎょう》しているそのあとへ弘法大師から使があったという。そこで法然が心に思うには、これはわしが内々十住心論に就て難じていたことが聞えたのであるよな、と思って、そうしてやがて大師の処へ出かけて行くと、五間ばかりなる家の板敷もなく距《へだ》てもなく、ただうちには西方を塗り廻らした壁の入口も何もない処がある。大師はこの中においでなさるのだなと思ってまず外でコワヅクロイをして見るとその壁の中から「こなたへ」という声がする。その声について入って壁の内を見ると更にその戸というものがなくて壁の崩れたところのみがある。その崩れからくぐり入ると壁の際《きわ》に居られた大師と胸を合せて抱きあわれて了った。大師の顔が法然の左の肩に置かれて、そうして前々に難破することを一々|会釈《えしゃく》して居られる。なお重ねて何か云おうとするうちに夢が醒《さ》めた。それを後に考えて見ると自分の非難をしたことが皆大師のお心に叶ったものと覚える。ひしと抱き合ったということが大師のお心に叶ったと見えるのである。よくもお前は非難してくれたと、大師が思召《おぼしめ》されたから夢にもあの通り会釈されたのだ。すべて学問というものは後学恐るべしといって、学生《がくしょう》という者は学問にかけては必ずしも先達であるからということはないのである。釈迦如来の滅後五百年に五百の羅漢が集って婆沙論《ばしゃろん》を作ったのに、九百年に世親《せじん》が出でて倶舎論《ぐしゃろん》を作って先きのそれを破って了った。義の是非を論ずる場合にはあながち上古にも恐るまじきものであるぞといわれた。
 法然は元《もと》天台の真言を習っていた。これは叡山に修学の当然であるが、中川の阿闍梨|実範《じちはん》が深く法然の法器に感じて許可|灌頂《かんちょう》を授け一宗の大事を残りなく伝えられた。
 この実範という聖《ひじり》は東寺の流れで当時の正統を継ぐ真言の師範である。
 このようにして法然は智恵第一の誉《ほま》れが一代に聞えた。実際当時日本に渡っていた聖教伝記《しょうぎょうでんき》の類を目に当てないものは一つもなかったといってよろしかろう。天台は固《もと》よりのこと他宗の総てに亙《わた》って一代の宗となる程の学力を有していた。禅の宗旨を論じた自筆の書物も存していたということである。
 法然が或時|月輪殿《つきのわどの》で叡山の一僧と参り合せたことがあった。その僧が、
「あなたが浄土宗をお立てになったのは何れの文に依ったのでございますか」と尋ねた時法然は、
「善導大師の疏の附属の文によりました」と答えた。山の僧が重ねて、
「苟《いやし》くも一宗義を立つる程のことに、ただそれだけの一文に依るべきものですか」と詰問した。法然は微笑して何とも云わなかった。その僧が叡山に帰ってから山の宝地房法印証真《ほうじぼうほういんしょうしん》にこの事を話して、
「法然房も返答をしなかった」というと、宝地房が云うのに、
「法然房の物を云われなかったのは、云うに足らずと思ったからである。彼《か》の人は天台宗の達者である上に剰《あまつさ》え諸宗に亙ってあまねく修学して智恵の深遠なること常の人に越えている。返答が出来ないで物を云わないのだと思うようなことではならぬ」といわれた。
 この法印は叡山に於て非常な学者で、一切経を繙《ひもと》き読むこと五返であったけれども恵心僧都《えしんそうず》が矢張り五返読んでいるという前例を憚《はばか》って三返だといった程で、時の地蔵菩薩の化身《けしん》と称していたこの法印が上人を智恵深遠と崇めていたのはよく法然を知る者と云うべく、他の人の賞美よりも意味が深いのである。
 法然が老後に竹林房静厳法印《ちくりんぼうじょうごんほういん》の弟子が天台の法門を尋ねた。法然は、
「わしは近頃は老耄《ろうもう》の上に念仏一方で、久しく聖教《しょうぎょう》を見ないが」といってそれでも後進の為に委しく天台の深奥を説き聴かせたが、その文理の明なること、当時の学者よりも秀れていた。どうしてもただ人ではないと感じ入ったことがある。その頃山門に学者林の如く幾多の明匠もあったのを差置いて隠遁の法然に宗の大事を尋ねに来たことによってもその達している程が推し計られる。
 法然が語って云うよう、
「わしは
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