の得業と称《よ》ばれていたが、これが勢至丸の母の弟であるから、勢至丸には叔父さんに当る。父の遺言もあることであるし、勢至丸はこの叔父さんの処へ行った。学問の性質がよくて、流るる水よりも速やかに、一を聞いて十を悟り、聞くところのこと忘れるということがない。
 叔父の観覚は勢至丸の器量を見て如何《いか》にもただ人ではないと思ったから徒《いたず》らに辺鄙《へんぴ》の塵に埋めて置くには忍びない、早く当時学問の権威|比叡山《ひえいざん》に送って本格の修業をさせなければならぬと心仕度をしていた。勢至丸はこの趣きを聞いて、はや故郷に留まる心はなく早く都へ上りたいと憧れている。叔父の観覚はその心を喜んでこの子を連れて母の処に行って、このことを物語ると母は流石《さすが》に人情として、とみに返事も出来ないでいると勢至丸が云う。
「受け難き人身を受けて、会い難き仏教に会う。眼の前の無常を見て夢の中の栄耀《えいよう》を厭《いと》わねばなりません。とりわけて亡き父上の御遺言が耳の底に止まって心のうちに忘れられません。早く都の叡山に登って本当の仏法修業をいたしたいものでござります。母上がこうしておいでの程は御孝養を致さねばなりませぬが、有為を厭い、無為に入るのが真実の報恩であるとの教文もござります。一旦の別離を悲しんで永日の悲歎をお残しなされぬように」
 と再三なぐさめの言葉を申した。母もこの理《ことわり》に折れて承諾の言葉を述べたけれども袖に余る悲しみの涙が我が小児の黒髪をうるおした。その悲しみの思いを歌って、
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かたみとてはかなき親のとどめてし
  この別れさへまた如何にせむ
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 そうしてはじめて比叡の西塔《さいとう》北谷、持宝房源光《じほうぼうげんこう》が許へ勢至丸を遣わされた。その時叔父の観覚の手紙には、
 進上、大聖文殊像《だいしょうもんじゅぞう》一体
 と、文殊は智恵である。この子が智恵の優れた子であるということを示す為であった。
 かくて勢至丸十五歳|近衛院《このえいん》の御宇、久安三年の二月十三日に山陽の道を踏み上って九重の都の巷《ちまた》に上り著いた時、途中時の摂政《せっしょう》であった藤原忠通の行列に行き会ったので、勢至丸は馬から降りて道の傍によけていると、摂政殿が勢至丸を見て車を止められて、
「いずくの人ぞ」
 とお尋ねがあった。おそばの者が、
「これは美作《みまさか》の国より出家修業の為に叡山に登るものでございます」と申上げた。摂政殿がそれを見て勢至丸に御礼儀があって、通り過ぎさせられたから、おそばの者が意外の思いをした。摂政殿が後に申されるには、
「今日路次で会った処の子わらべは眼から光りを放っている。如何にもただ者ではないことが分る。そこで礼をしたのじゃ」と云われた。
 後に忠通公の息|月輪殿《つきのわどの》が上人に帰依《きえ》深かった因縁もこの物語と思い合わされるものがある。

       三

 勢至丸は都へ入ってから、まず叔父の観覚得業の手紙を持宝房へ遣《つか》わされると、源光房がその手紙を見て、
「ハテ文殊の像一体とあるが」と不審がると使者が「いえ、文殊菩薩の御像を持参致したわけではござりませぬ。お稚児《ちご》さんを一人連れてまいったのでございます」
 そこで源光は早くも、この小児の聡明なることを察して迎えを遣わし、同じ月の十五日に叡山に登った。
 叡山の持宝房についたから試みにまず四教義《しきょうぎ》を授けて見ると籤《せん》をさして質問をする。疑う処皆古来の学者たちの論議した処と同じである。まことにただ人ではないと皆が申し合った。この子の器量が同輩に過ぎたる名誉を知って源光は「おれは魯鈍の浅才であるから、この子の教育の任に堪えぬ。然るべき碩学《せきがく》につけてこの宗の奥義を究めさせなければならぬ」といって久安三年四月の八日にこの子を引連れて功徳院肥後|阿闍梨《あじゃり》皇円の許《もと》に入室させた。
 この皇円阿闍梨は、粟田関白四代後の三河権守重兼が嫡男であって、少納言資隆|朝臣《あそん》の長兄にあたり、椙生《すぐう》の皇覚|法橋《ほっきょう》の弟であって、当時の叡山の雄才と云われた人である。この皇円阿闍梨はこんど連れてこられた少年の聡敏なることを聞いて驚いて云う。
「さる夜の夢に満月が室に入ると見た。今この法器にあうべき前兆であったわい」
 といって悦《よろこ》ばれた。
 同じき年の十一月の八日、勢至丸は黒髪を剃《そ》り落し法衣を著し、戒壇院《かいだんいん》で大乗戒を承けた。
 或時のこと師範の阿闍梨に向って申されるには、
「既に出家の本意《ほい》を遂げて了いました。今は山林の中へ遁れようと思います」
 それを聞いて師の阿闍梨が云われるには、
「仮令《たとい》隠遁の
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