二十一日世間並の尼女房達が沢山上人の処へ集って来て戒を受け、教えを聴こうとした。法然はその願い通りに聖道《しょうどう》の難行なること、浄土の修し易きことを語り聴かせて彼等を随喜させて帰した。
 法性寺左京大夫信実朝臣の伯母であった女房が、道を尋ねて来たので、法然はそれに返事を書いている。その中に、
「三心と申し候も。ふさねて申す時は。ただ一の願心にて候なり。そのねがう心の。いつわらず。かざらぬ方をば。至誠心《しじょうしん》と申候。この心の実《まこと》にて。念仏すれば臨終に来迎《らいごう》すという事を。一心もうたがわぬ方を。深心《じんしん》とは申し候。このうえわが身もかの土《つち》へむまれんとおもい。行業《ぎょうごう》をも往生のためとむくるを。廻向心《えこうしん》とは申し候なり。この故にねがう心いつわらずして。げに往生せんと思い候えば。おのずから。三心は具足する事にて候なり」
 伊豆国|走湯山《はしりゆさん》に、妙真という尼があった。法華の持者真言の行人であったが、事のたよりに上洛の時法然の教えを受けてそれから専修念仏に転じたが誰れにも語らず、同行の尼一人に示していた。或時明日の申《さる》の刻に往生するからといっていたが、間違いなくその時刻に端座合掌し高声念仏して往生をとげた。様々の奇瑞があって人の耳目を驚かしたそうである。

       二十五

 これまで京洛を中心として法然の教化が上下に普かったが、それから鎌倉の二位尼(頼朝の妻政子)の帰依《きえ》が深く、蓮上房尊覚という者を使として念仏往生のことを尋ね越されたから、法然はそれにも返事を書いている。その中に、
「強《あなが》ちに信ぜざらん人を。御すすめ候べからず。仏もかない給わざる事なり」
「念仏の行は。もとより行住座臥時処諸縁をきらわず。身口《しんく》の不浄をきらわぬ行にて易行往生《えぎょうおうじょう》と申し候なり。ただし心をきよくして申すを。第一の行と申し候なり。人をも左様に御すすめ候べし。ゆめゆめこの御心は。いよいよつよくならせ給え候べし」
 上野国の御家人、大胡《おおご》小四郎隆義は在京の時吉水の禅室に参じて法然の教えをうけて念仏の信者となったが、国へ下ってから不審のことは法然給仕のお弟子、渋谷七郎入道道遍を通じて法然の教えを受けていたが、法然は細かに返事の消息を遣わされている。隆義の子太郎実秀も父の後を継いで法然に不審の事を小屋原蓮性という者を使者として尋ねて来た時も、法然は真観房に筆を執らせて返事を与えている。
「念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆえなり。本願と云うは。阿弥陀仏のいまだ仏にならせ給わざりし昔。法蔵菩薩《ほうぞうぼさつ》と申ししいにしえ。仏の国土をきよめ。衆生を成就《じょうじゅ》せんがために。世自在王如来《せじざいおうにょらい》と申す仏の御前にして。四十八願をおこし給いしその中に。一切衆生のために。一の願をおこし給えり。これを念仏往生の本願と申す也」
 この消息は細々と経説を挙げてかなり長いものになっているが、実秀は法然からこの消息を恭敬《くぎょう》頂戴して一向に念仏し、寛元四年往生の時矢張り奇瑞があったという。実秀の妻室も深くこの消息の教えを信受してよき往生の素懐を遂げたという。
 武蔵国《むさしのくに》那珂郡《なかごおり》の住人弥次郎入道(実名不詳)という人も上人の教化を蒙《こうむ》って一向念仏の行人となったが矢張り上人から手紙を貰って秘蔵していた。或時病気でなやんでいたが、夢に墨染の衣を着た坊さんが来て、青白二茎の蓮華をもって来て往生の時と極楽の下品《げぼん》から上品《じょうぼん》に進むというようなことを教えて行ったという奇瑞がある。

       二十六

 武蔵国の御家人|猪俣党《いのまたとう》に甘糟太郎忠綱《あまかすのたろうただつな》という侍は深く法然に帰依した念仏の行者であった。山門の輩が蜂起して日吉《ひえ》八王子の社壇を城廓として乱を起した時、忠綱は勅命によってそれを征伐に向った。時は建久三年十一月十五日であったが、甘糟忠綱は出陣の命を受くると共に法然の許に走《は》せ参じ、
「拙者は武勇の家に生れて戦《いくさ》をしなければなりません。戦をすれば悪心が盛んになり願念が衰えます。願念を主とすれば却って敵の為に捕虜になって永く臆病者の名を残し家の名を汚すでしょう。何れを何れとしていいか分りません。弓矢の家業も捨てず、往生の願いもとぐる道があらば願わくは一言を承りたいものでございます」
 法然答うるよう、
「弥陀の本願というものは、機《き》の善悪を云うのではない。行いの多少を論ずるのではない。身の浄不浄を選ぶのでもない。時と処と縁とによらず、罪人は罪人ながら名号を称えて往生するというところが本願の不思議というものだ。弓箭の家に生れたものが
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