美事に往生をした。同行が都へ上った時に、この遺言の次第を委《くわ》しく法然に申上げた処、法然が成る程よく心得たとは見たが、その通りであったわい、あわれなことじゃなといわれた。
 沙弥随蓮《しゃみずいれん》は後に法然が四国へ流された時もお伴《とも》をしていた程のお弟子であるが、法然が亡くなって後、建保二年の頃或人が来て云うのに、
「如何《いか》に念仏をしたからとて、学問をして三心を知らない者は往生することは出来ないそうですね」といいかけたものがあるので、随蓮が、それを説明して、
「故上人は念仏は様なきを様とす。唯ひたすら仏の言葉を信じて念仏をすれば往生をするのだ。と仰言《おっしゃ》って全く三心のことなどを云われたことはありません」その人が重ねて云うには、
「それは心の足りない者の為に、方便の為に上人が仰言られたのだ。上人の本当のお志はもっと高尚な処にあるのだ」と論じ、経釈《きょうしゃく》の文などを引き合いに出して論じかけて来たものだから、随蓮も少し考えがグラついて来ていた処、或夜の夢に法勝寺の池の中にいろいろの蓮華の咲き乱れているのを見たが、そこへ法然上人が現われて、
「お前、誰れかひが言《ごと》を云う者があって、あの池の蓮華をあれは蓮華ではない、梅だ桜だと云うた者があってもお前はそれを信ずるか」と尋ねられたから、随蓮が、
「現に蓮華であるものを如何に誰れが桜と申しましょうとも梅と申しましょうともそれが信ぜられましょうや」
 法然が曰《いわ》く、「念仏の義もまたその通りじゃ。わしがお前に念仏をして往生することはきまりきって疑いがないと教えたのをお前が信じたのは蓮華を蓮華と思うのと同じことだ。他から梅といわれようとも、桜といわれようともそれを信じてはならぬ」といわれるのを夢に見て、近頃の疑念が残りなく晴れ、往生の素懐《そかい》をとげたということである。
 法然は人によって三心のことを説かれたけれども、三心に捉われて却って信心を乱ることをおそれたのである。遠江《とおとうみ》の国久野の作仏房《さぶつぼう》という山伏は、役《えん》の行者の跡を訪い、大峯を経て熊野へ参詣すること四十八度ということであるが、熊野権現の前で祈っている時、法然房に出離の道を尋ぬべしというお示しを受けたというので都へ上って法然の教化を受けて念仏の行者となった。それから本国に下って市に出て染物などのようなものを売買して家計をたてつつ独り身で自由に生活していたが、往生際がとても美事で、念仏の声が止まったかと思うと本尊に向って端座合掌したその顔は笑めるが如く、そのままで往生していたので、諸人が雲の如く集ってその奇特に驚きあったとのことである。

       二十一

 法然が常によく云いつけていた言葉のうちから幾つかを抄録して見る。
「念仏申すにはまたく別の様なし。ただ申せば極楽へむまると知って。心をいたして申せばまいるなり」
 又云う。「南無阿弥陀仏というは。別したる事には思うべからず。阿弥陀ほとけ我をたすけ給えという言葉と心得て。心には阿弥陀ほとけ。たすけ給えとおもいて。口には南無阿弥陀仏と唱えるを。三心具足《さんじんぐそく》の名号と申すなり」
 又云う。「罪は十悪五逆《じゅうあくごぎゃく》の者。なおむまると信じて。小罪をもおかさじと思うべし。罪人なおむまる。いかにいわんや善人をや。行は一念十念むなしからずと信じて。無間《むけん》に修すべし。一念なおむまる。いかにいわんや多念をや」
 又云う。「我はこれ烏帽子《えぼし》もきざる男なり。十悪の法然房|愚癡《ぐち》の法然房が。念仏して往生せんと云うなり」
 又云う。「学生《がくしょう》骨になりて。念仏やうしなわんずらん」
 又云う。「往生は一定《いちじょう》と思えば一定なり。不定《ふじょう》と思えば不定也」
 又云う。「一丈の堀を越えんと思わん人は。一丈五尺をこえんとはげむべし。往生を期せん人は決定の信をとりてあいはげむべきなり」
「又人々後世の事申しけるついでに。往生は魚食せぬものこそすれという人あり。或は魚食するものこそすれという人あり。とかく論じけるを。上人きき給いて。魚くうもの往生をせんには。鵜《う》ぞせんずる。魚くわぬものせんには。猿《ましら》ぞせんずる。くうにもよらず。くわぬにもよらず。ただ念仏申すもの往生はするとぞ。源空はしりたるとぞ仰せられける」

       二十二

 或人より安心起行《あんじんきぎょう》を問われし手紙の返事の中に、「浄土に往生せんと思わん人は。安心起行と申して。心と行と相応ずべきなり。その心というは観無量寿経《かんむりょうじゅきょう》にときて。もし衆生《しゅじょう》あって。わが国にむまれんとおもわんものは。三種《さんじゅ》の心をおこしてすなわち往生す。なにをか三とする。一には至誠
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