かに念仏をしているような様子であったから、この男が咳をして見た処、法然はやがて寝込んでしまわれた様子で、その夜も明けた。四郎はどうも解せないことだと思いながらも、尋ねて見るのも億劫《おっくう》でその日は帰り、その後また訪ねた時に法然は持仏堂にいて四郎は大床に伺候して云うことに、
「どうもやつがれのような無縁の者は都には居られないようですから、相模《さがみ》の国河村という処に知っている侍がありますから、それを頼んで下って見ようと思います。何分こう年をとりましてはまたと再びお目にかかる事も覚束ないと存じます。固《もと》よりこの通り無智のものでござりますから、深い法門を承ったとて、甲斐《かい》のないことと存じますから、ただこれならば往生が出来るという御一言だけを生涯の御かたみに戴いてまいり度うございます」法然がそれを聴いて答えていうに、
「まず念仏には深いということは無い。念仏を申すものは必ず往生が出来るということを知るばかりだ。深い義理があるなんぞと思ってはならぬ。それでも念仏というものは極くたやすい行いだから、申す人は多いけれども、往生が出来る者の少いのは古実を知らないからだ。そうだ先月のこと、ここには誰れも居らないで、お前とわしとただ二人きりいたことがある。その夜中わしはそっと起きていて念仏をしていたのをお前は聴かれたか」
 といわれたから、四郎は、
「いかにもそれは承りました。寐耳《ねみみ》によく覚えて今日まで不思議に思って居りました」
 法然「それこそやがて本当の往生の念仏だ。総て虚仮《こけ》といって飾る心で称える念仏では往生は出来ない。飾る心がなくして、真の心で申さねばならぬ。子供だとか動物だとか云うものの前では飾って見せる心はないけれども、世間並の人に向えばどうしても飾る心が起るものだ。誰れとて人間として人間の中に住んで居ればその心のない者はない。そこで夜更けてから見る人もなく、聴く人も無い時、そっと起きていて百遍でも千遍でも心任せに申した念仏は飾る心がないから仏の意にも相応して本当の往生が出来るというものだ。それでその心持さえ出来れば、何も夜と限ったものではない。いつでもその飾らぬ心で念仏を申すがよい。なお例えて云うて見ると、盗人が人の宝に思いをかけて盗もうと思う心は底に深いけれども表面はさり気なき色にして決して人にはあやしげなる色を見せまいとするようなものじゃ。その盗み心は人は誰れも知らないから少しも飾らない心になる。本当の往生もまあそんなようなものだ。人に見せないで仏より外には知る人もない念仏、そこで疑いのない往生が出来るわけだ」
 それを聴いて四郎が、
「よくお言葉がわかりました。それを承って私もどうやら往生が出来そうでございます。ではこれから人の前で珠数を繰ったり、口を動かしたりして念仏をすることは止めましょうかしら」
 というと法然がまた、
「それはまた僻《ひが》みというものだ。念仏というものの本意は常念でなければならぬ。強《し》いて性質をためて本来臆病の者が剛《ごう》の者の真似をするにも及ばない。剛の者がまた変に臆病がるにも及ばない。本性にうけて真の心で如何なる処、如何なる人の前で申すとも少しも飾る心がなければそれが真実心の念仏で、きっと往生が出来る」
 といって三心《さんじん》の事を説いて聞かせると、四郎が、
「それではその夜中に念仏をいたします時には必ず起きていてしなければなりますまいか。また珠数や袈裟《けさ》などを用意して申さねばなりますまいか」
 法然答えて、
「念仏の行は行住座臥《ぎょうじゅうざが》を嫌わないのだから、伏して申そうとも、居て申そうとも心に任せ時によるのだ。珠数を取ったり、袈裟をかけたりすることも、又折により体《たい》に従ってどちらでもよろしい。詰り威儀というものはどうでも今云うた真の心で念仏を申すことが大切だ」
 と教えられた。天野四郎の教阿弥陀仏は、歓喜踊躍し、法然の前に合掌礼拝して罷《まか》りかえったが、その翌日法蓮房信空の処へ行って暇乞《いとまごい》をした時、昨日上人から教えられたことを述べて、お蔭様でこんどの往生は少しも疑いがないといって、東国へ向って行った。
 その後法蓮房が、法然の前で、
「左様のことがありましたか」と尋ねると法然が答えて、
「そうそう、それは昔盗人だと聞いていたから対機説法ということをして見たのだ。一寸は分ったように見えたわい」
 といわれた。
 教阿の天野四郎は、こうして相模の国河村へ下って行ったが、やがて病気で死のうとする時分に、同行に向って、
「わしは法然上人の教えをよく受けているから立派な往生が出来る。往生のしぶりを見て置いてよく法然上人にお伝え申して呉れよ」
 と遺言して正念《しょうねん》たがわず、合掌乱るることなく念仏を高声に数十遍称えて
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