る。そこで今時の人は聖道門を捨てて浄土門に帰するがよいという。
 阿弥陀如来は他の行を以て往生の本願とせず、ただ念仏をもって本願とする。
 無量寿経《むりょうじゅきょう》上巻の本願の文を引いて云う。念仏は最も優れ余行は劣る。それは名号の中には万徳が備わっているからである。例えば家といえば、その建物全部を称えるけれども、棟とか梁とか柱とか云ったのでは一部分しか含まれていない。そこで家といえば全体を云うように、弥陀の名号を称えれば全体の功徳に呼びかけることが出来る。仏像を作ったり、塔を建てたりすることが本願ならば貧乏人は往生出来ないことになる。智恵があり才学の高いのをもって本願とすれば愚鈍不智のものは往生の望みがなくなる。自戒自律を以て本願とすれば破戒無戒の人は永久に救われないということになる。そこで阿弥陀如来が法蔵比丘《ほうぞうびく》の昔平等の慈悲に催されて普《あまね》く一切を救わんが為に唱名念仏の本願を建てられたのである。
 右の趣旨を多くの経文を引いてつぶさに述べられたのが即ち撰択本願念仏宗《せんじゃくほんがんねんぶつしゅう》である。

       十九

 月輪殿北政所《つきのわどののきたのまんどころ》も同じように法然を信じて念仏往生のことを尋ねられたが、法然がそれに答えた返事の手紙というのが残っている。
 阿波介《あわのすけ》という陰陽師《おんようじ》が法然に給仕して念仏をしていたが、或時法然がこの男を指して、
「あの阿波介が申す念仏とこの源空が申す念仏と何れが勝っているか」と聖光房に尋ねられたところが、聖光房は心中に何か考うる処はあったけれども、
「それはどういたしまして、御上人の念仏と阿波介が念仏と一緒になりましょう」と答えたのでその時法然が由々しく気色が変って、
「お前は日頃浄土の法門といって何を聴いているのだ。あの阿波介も、仏たすけ給えと思って南無阿弥陀仏と申している。この源空も仏助け給えと思って南無阿弥陀仏と申している。更に差別はないのである」
 といわれたから、聖光房も固《もと》より、それとは思っていたけれども、法然からそういわれて宗義の肝腎今更の様に胸に通ったということである。
 二念珠《にねんじゅ》ということをやりだしたのはこの阿波介である。阿波介は百八の念珠を二連持って念仏をしたから人がその故を尋ねると阿波介が答えて、
「暇なく上下すればその緒《お》が疲れ易《やす》い。一連では念仏を申し、一連では数をとって積る処の数を弟子にとれば緒が休まって疲れません」
 と答えたので法然がそれを聞いて、
「何事も自分の心に染《し》みていると才覚が出て来るものである。阿波介は性質は極めて愚鈍の人間だが往生の一大事が心にしみているからこそ斯様《かよう》な工夫も考えだすのだ」とほめたということである。
 或修行者が浄土教の教義は分っていたが、まだ信心が起らないので嘆いていた。或時東大寺に参詣すると、丁度棟木を挙げる日で、おびただしい材木をどうして引き揚げるのかと心配して見ていると轆轤《ろくろ》を使って大木をひき上げ、思う処へどしどしと落し据えた。それを見て成程良工の謀《はかりごと》はうまいものだ。まして況《いわ》んや、弥陀如来の善行方便をやと思って疑いが晴れて信心が決まった。この時はかねて法然から三宝に祈請《きしょう》すべしということを教えられて東大寺に参詣しての思わぬ獲物であった。
 聖如房という尼も法然の教えに帰していたが、病気に罹《かか》っていよいよ臨終という時にもう一度上人にお目にかかり度いということを申越して来たが、法然は丁度別行の時であったから、手紙で細々《こまごま》と書いてやった。その手紙が残っている。その中に「我等が往生はゆめゆめ我身のよきあしきにより候まじ。ひとえに仏の御力ばかりにて候べきなり」というようなことがある。その手紙の心のおもむきを深く心に留めてめでたき往生をとげたということである。
 仁和寺《にんなじ》に住んでいた一人の尼が法然の処に来て申すよう、
「私は千部の法華経を読むように願をたてまして、七百部だけは読んでしまいましたが、もうこの年になっては残りを読みきれそうもござりません。なさけないことでござります」
 と歎いたのを法然が慰めて、
「お年をとっているのによくそれでも七百まで読みましたね。ではその残りを一向念仏になさいまし」
 といって念仏の効能を説き聞かせその通りにさせて安楽の往生をとげさせたことがある。法然のお弟子がその往生振りを夢に見たという奇談もあった。

       二十

 河内《かわち》の国に天野四郎《あまののしろう》と云うて強盗の張本があった。老年になってから法然のお弟子となって、教阿弥陀仏と名乗って常に法然の膝元で教えを受けていたが、或晩夜中に法然が起きていて、ひそ
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