であるが、法然が特に召されてこの席に列《つらな》るということは非常なる特例である。ただその席に列ることでさえが非常なる特例であるが、この一座の上に立って先達を勤むるということは特に破天荒というべきである。この時代のやかましい宗教界、名刹《めいさつ》の上下でさえも焼き打ちが始まる宗教的確執、我慢の時に於て、何等の僧位僧官も無い平民僧の法然が、彼等の上に立って先達を勤むることが是認せられるということは殆んど想像以上の一大奇蹟と云わねばならぬ。
 その以前今日の御催しの時に東寺へも御沙汰があって、東寺からも僧を召されるというような噂を伝え聞いて、天台側から抗議が出た。
「こんどの御経衆に東寺の僧を召し出される風聞がございますが、そもそもこの御経衆は慈覚大師が初めてとり行われた法則でございます。他門の僧を召さるることはよろしくござるまいと存じます」
 東寺は弘法大師の真言宗である。山門寺門の天台側からこの抗議があって見ると、仮令《たとい》法皇の思召《おぼしめし》でもそれを押し切る訳には行かなかった。
 処が法然が召されるという噂があったに就ても山門寺門では故障異議を申出でることがないのみか、「あの上人ならば仔細《しさい》を申すことはない」との事であった。そこで法然が召されて単に御経衆に列るだけではない、一座の先達を勤むることに誰一人異議がなかったのである。
 固《もと》より法然は天台門から出た人ではあるが、今は自ら浄土の法門を開いた別宗の人の形になっている。それが特に召されて第一座を占め、先達を勤むることになって不足の云いようがないということは前にも後にも例のない程の圧倒的な人格の力といわねばならぬ。法然はこれを固く辞退したけれども勅定が頻《しき》りに降って辞するに由なくその勤めを行うことになった。
 その時の席順は正面の東西に席を設けて東の第一座が法然上人、西の第一座が後白河法皇、法然の次が入道相国(太政大臣師長)それから叡山の良宴法印以下が各々《おのおの》その位によって列座したのである。昔奈良朝の時、行基菩薩はあれ程の大徳であったけれども、世俗の法によって婆羅門《バラモン》僧正の下に着座をした。この例によると叡山を代表して良宴法印が法然上人の上座に着くべきであるが、法皇の別勅によって法然上人が第一座に着かせられ、山門の代表者も甘んじてそれに席を譲ることになった。太政大臣は固よりその次席である。そこで法然は礼盤《らいばん》にのぼりて啓白、その式を行われたのである。
 九月四日に観性法橋から進呈せられた御料紙《ごりょうし》をむかえらるる式がある。これも法然が申し行われる。同じき八日写経の水を迎えられること、同十三日御経奉納の式がある。これ皆国家の大事と同じ様な行幸があり、儀式がある。そのはなばなしい一代の盛儀に特に隠遁の法然を召し出して先達とせられたこと、帝王|帰依《きえ》の致す処とは云え、個人の徳望の威力古今無比といわねばならぬ。

       十

 のみならず高倉院御在位の時、承安五年春のこと、勅請があって、主上に一乗円戒を法然上人が授け奉った、という特例がある。これは清和天皇が貞観《じょうがん》年中に慈覚大師《じかくだいし》を紫宸殿《ししんでん》に請じて天皇、皇后共に円戒を受けられたという前例がある。法然上人は法統から云えば慈覚大師より九代の法孫に当る。法然一平僧の身を以てこの重大事の勅命を受け、慈覚以来の古《いにし》えを起したということは無上の破格であった。
 又後白河法皇の勅請によって、法然は法住寺の御所に参り、一乗円戒を法皇に授け奉った。その時には山門寺門の学者達を召されて、番々に「往生要集」を講じ、各々の所存を述べさせられたが、法然も仰せに従って披講《ひこう》をした。その時「往生極楽の教行《きょうぎょう》は濁世《じょくせ》末代の目足なり。道俗貴賤、誰れか帰せざらんもの」と読み上げただけで初めて聞かれたように貴い響があって胆に銘じ法皇の感涙が止まらなかったとのことである。その時御信仰の余り右京権大夫隆信朝臣に仰せつけられて法然の真影を図して蓮華王院の宝蔵におさめられたそうである。先きの世にも例の無いことだと云われる。
 斯様に後白河法皇は法然に帰依し、百万遍の苦行を二百|余箇度《よかど》まで功を積まれたということである。建久三年正月五日から法皇が御悩みあって、日毎に重らせられる。そこで御善知識の為めに法然に仰せが降った。二月二十六日に法然は法皇の御所に参じて、御戒を奉られ御往生の儀式を定め、重ねて念仏のことを申上げられ、それから三月の十三日に御臨終正念にして称名を相続しながら御端坐のままで往生を遂げさせられた。御年六十六。
 法皇が崩御遊ばされた後御菩提の為めに建久三年秋の頃、大和の前司|親盛《ちかもり》入道が、八坂の
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