引導寺、心阿弥陀仏調声《しんあみだぶつちょうしょう》を行い、住蓮、安楽、見仏等の人達が助音して六時礼讃《ろくじらいさん》を修し、七日念仏した。結願《けちがん》の時種々の捧げ物を取り出でたのを法然は不受の色を表わして、
「念仏というものは自らの為の勤めである。法皇の御菩提に回向《えこう》をしたとは云え、もともと自らの為の念仏に他より布施を受くるとはもっての外のことである」と誡められた。これが六時礼讃の苦行のはじめである。
後白河法皇の十三年の御遠忌に当って土御門院が御仏事を修せられた。それは元久元年三月のことで、その時法然は蓮華王院で浄土の三部経を書写せられ、能声を選んで六時礼讃を勤行して、ねんごろに御菩提をとぶらい申された。見仏の請によって浄土三部経を法華の如法経《にょほうきょう》になぞらえて書写すべき法則を定められたのもこの時である。
後鳥羽院にも度々勅請あって、円戒を御伝授、上西門院、修明門院、同じく御授戒があった。三公、公卿、朝の内外仰いで伝戒の師としないものはない。
十一
公家のうちでは九条関白|兼実《かねざね》が(後の法住寺殿、又は月輪殿)法然に対する信仰は殊に比類のないものであった。
二月十九日に法住寺殿の御忌日に御仏事があって、僧俗座を分けて立ち並ぶうちに法然も招請されたが、この時の席次に於ても慈鎮和尚《じちんかしょう》(僧正)・菩提山の僧正(信円)何れも一隠遁の平民僧である法然に向って正座を譲られた。
兼実が月輪殿を造った時も、その御殿の中に一種異様な別棟を一つ建てられた。そこで奉行の三位範季卿という人が、
「今まで殿下の御所を多く拝見しました処こう云うお邸はまだ存じませぬ」という。
「そうでもあろうが、思う処があるのだから兎も角急いでくれ」
といって建てさせられたが、これは法然の休み処のためであった。老体の法然をまずここに招いて休ませ、それから後に対面をするというためであった。或時の如きは、法然が月輪殿に出向いて行くと兼実は跣足《はだし》で降りてそのお迎えをした。処で居合せた聖覚法印、三井の大納言僧都というような顔触れも同じように跣足で降りて迎えなければならなくなったということである。
建久八年(六十五歳)の時法然が少しく病気に罹《かか》った。兼実は深くこれを歎いたが、それでも病気は間もなく治《なお》った。その翌年正月の一日から法然は草庵にとじ籠って何れから招かるるも出て行かなかった。その時、兼実は藤右衛門尉重経《とううえもんのじょうしげつね》を使として法然に、
「浄土の法門年頃お教えを承りましたが、不敏にしてまだまだ心腑に収め難いものが多くございます。冀《こいねがわ》くはその要領を文にして記し賜りたい。その望みが叶えば御面談の代りにもなり、且《かつ》は後世への記念にも備えることが出来まする」
と申越された。そこで法然が、この兼実の請を容れて弟子の安楽房に筆を執らせて著作をしたのが有名な「撰択集《せんじゃくしゅう》」である。
この時の執筆者安楽房というのは外記入道師秀という者の子であるがこの時その撰択集の第三章を筆写せしめられた時、つぶやいて云うには、
「わたしが生《なま》じい字を書く人間でさえなければこう云う役廻りは仰せつけられなかっただろうに」
といったのを法然が聞いて、「これは増長している。※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢な心が深いから悪道に落ちる奴だ」といって安楽房を退けてその後は真観房感西に書かせることにした。而《しか》してこの安楽房は、後年後宮女房のことから自分は斬罪に会い、師の法然を遠流《おんる》にするような事態を惹《ひ》き起した人物である。
兼実は上述の如く法然が来る毎に降《くだ》り迎えをされる。摂政関白が既にこの通りだから、その以下の公家殿上人の降り騒がれることは容易のものではない。法然はそれを煩《うる》さいことに思って九条殿下へ(月輪兼実)参らないように、草庵にとじ籠《こも》りということを名にして、九条殿をはじめ、何処へも出て歩くことをしなかった。それを兼実は頻りに歎いて、「それでは仮令《たとい》房籠りの折と雖もわしの身に異例でもあるような時には見舞いに来て下さるだろうな」
上人も左様な時には仔細に及ばないと申されたのを言質として、いつも病気とか、異例とかいって法然の処へ招請の使を寄せられる。法然も辞退し難くて月輪殿を訪ねる。それを門弟の正行房という者が心の中で思うよう、
「お上人も房籠りというて他所《よそ》へはおいでにならないで、九条殿へだけおいでになるということは、人によっては上人程のお方でも貴顕へは諂《へつら》っておいでになると謗《そし》る者がないとは限りません。おいでになるならば貴賤上下隔てなくおいでになるがよろしい。
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