用もやと、やり[#「やり」に傍点]戸を引き開けて見ると、法然の身体《からだ》から赫奕《かくえき》と光が現われ、坐っている畳二畳に一杯になっている。その明かなることは夕暮の山を望んで夕陽を見るようで、身の毛もよだつばかりに立ちすくんで了った。法然が、
「誰れじゃ」と問われたから、
「湛空《たんぐう》」と答えると、
「皆の者をも斯様にしてやりたいものだ」といわれたそうである。
 或時法然が念仏していると勢至菩薩《せいしぼさつ》が現われたことがある。その丈一丈余り、画工に云いつけてその相を写し留められたことがある。
 又或時草庵を立ち出でて帰って来ると絵像でもなく、木像でもない弥陀の三尊が垣を離れ、板敷にも天井にもつかずして居られたが、その後はこう云う姿を拝むのが常のことであったという。
 元久二年正月一日から霊山寺《りょうぜんじ》で三七日《みなぬか》の別時念仏を始めた時も、燈火が無くて光りがあった。第五夜になって行道すると勢至菩薩が同じ列に立ち入って行道した。法蓮房は夢の如くにそれを見たが、法然にその事を云うと、
「そういうこともあろう」と答えられた。余の人には見えなかったという。
 同じ年の四月五日に法然が月輪殿に参って数刻法談をして帰る時、兼実が崩れるように庭の上に降りて法然を礼拝し、額を地につけてやや久しくあったが、やがて起き直り、涙にむせびながら云われるには、
「上人が只今土を離れて虚空に蓮華を踏んでお歩きになり、うしろに頭光《ずこう》が現われておいでになったのを見なかったか」と。
 右京権大夫入道と中納言阿闍梨|尋玄《じんげん》の二人が御前に居たけれども、それを見なかったということである。池の橋を渡る時に、頭光が現われたので、その橋を頭光の橋と称《よ》ぶことになったそうである。
 又或人が法然から念珠を貰って夜昼名号を唱えていたが、或時フト竹釘に懸けて置くとその一家が照り赫《かがや》いていた。その光をただして見ると法然から貰った念珠から出た光で、その珠毎に歴々と光を放ち暗夜に星を見る如くであったという。
 法然の弟子の勝法房《しょうほうぼう》というのは、画を描くことが上手であったが、或時法然の真影を描いてその銘を所望した処が、法然がそれを見て、鏡を二面左右の手にもち、水鏡を前に置いて頂《いただき》の前後を見比べていたが、ここが違うといって胡粉《ごふん》を塗って直し、
「これで似たぞよ」といって勝法房に与えられた。銘のことは何とも云われなかったが、勝法房が後日また参って所望を申出でた時法然は自分の前にあった紙に、
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我本因地  以[#二]念仏心[#一]  入[#二]無生忍[#一]
今於[#二]此界[#一]  摂[#二]念仏人[#一]  帰[#二]於浄土[#一]
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    十二月十一日[#地から5字上げ]源空
   勝法御房
 と書いて授けられたから、これを前の真影に押して敬い掲げた。これは首楞厳経《しゅりょうごんぎょう》の勢至の円通の文である。
 又或人が法然の真影を写して銘を頼んだ時もこの文を書いてやったことがある。
 又讃州生福寺に止まって居られた時は勢至菩薩の像を自作して、法然本地身。大勢至菩薩。為[#レ]度[#二]衆生[#一]故。顕[#二]置此道場[#一]。と記されたそうである。
 法然が勢至菩薩の応現であるということはその幼名によっても思い合される処であって、自分もまた何か感応する処があったものと見える。
 かく法然自身に様々の奇瑞が現われたという伝説があると同時に、法然を信ずる者の側にも様々の感得夢想が現われたということも甚《はなは》だ多い。或人は法然が蓮華の中で念仏をしていると見た。或人は天童が法然を囲《めぐ》って管絃|遊戯《ゆうげ》していると見た。或者は又洛中はみんな戦争の巷《ちまた》であるのに法然の住所だけがひとり無為安全であるのを見た。或者は又嵯峨の釈迦如来が法然の道を信ぜよとお告げがあったのを見た。この類の奇瑞、信仰数うるに絶えざるものあるも無理がない。

       九

 かくして法然は、上は王公から、下は庶民に至るまで、その徳風が流溢《りゅういつ》して来た。文治四年八月十四日のこと、後白河法皇が河東押小路《かとうおしこうじ》の御所で御修経のことがあった。その時の先達として法然上人が選ばれた。
 まずその日集る処の御経衆には法皇をはじめとして、妙音院入道|相国《しょうこく》(師長公)、叡山からは良宴法印、行智律師、仙雲律師、覚兼阿闍梨、重円大徳という顔触れ、三井《みい》の園城寺《おんじょうじ》からは道顕僧都、真賢阿闍梨、玄修阿闍梨、円隆阿闍梨、円玄阿闍梨という顔触れ、それに法然上人とその門弟行賢大徳が参加するのだが、山門寺門の歴々は慣例上是非ないこと
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