い」
といわれた。そこで法然が、
「如何にも御房は道理を知れるお人である。帝王の宣旨を釈迦の遺教《ゆいきょう》とし、宣旨が二つあるとすれば、釈迦の教えにも正像末《しょうぞうまつ》の格別があるようなものである。聖道門《しょうどうもん》の修業は正像の時の教えであるが故に上根上智のものでなければ称することは出来ない。これを仮りに西国への宣旨とする。浄土門の修業は末法濁乱《まっぽうじょくらん》の時の教えであるから、下根《げこん》下智の輩《やから》を器とする。これを奥州への宣旨とする。それを取り違えてはならない。大原談義の時聖道浄土の議論があったが、法門に就ては互角の議論であったが、気根比べにはわしが勝ったのじゃ。聖道門は深いというけれども時が過ぎれば今の機にはかなわない。浄土門は浅いようではあるけれども当根に叶い易《やす》いと云った時、末法万年余経悉滅弥陀一教利物偏増《まっぽうまんねんよきょうしつめつみだいっきょうりもつへんぞう》の道理に折れて人々が皆心服したのだ」と。
支那でも浄土の法門を述べる人師は多いけれども、法然は唐宋二代の高僧伝の中から曇鸞《どんらん》、道綽《どうしゃく》、善導《ぜんどう》、懐感《えかん》、少康《しょうこう》の五師を抜き出でて一宗の相承をたてた。その後俊乗坊|重源《ちょうげん》が、入唐《にっとう》の時法然が云うのに、
「唐土に右の五祖の影像があるに相違ない。必ずこれを持っておいでなさい」
そこで重源が彼の地へ渡った後あまねく探し求めると、果して法然の云うた通り右の五僧一幅に描いた画像を見つけることが出来て重源は法然の鑑識の透徹していることに感心したそうである。この重源|将来《しょうらい》の画像はその後二尊院の経蔵に安置せられていた。
七
法然が黒谷で華厳経の講義をしていた時に青い小さい蛇が机の上にいた。それを居合せた法蓮房信空に向って、
「この蛇を取ってお捨てなさい」と法然が云えば法蓮房は生来非常の蛇嫌いの人であったけれども師命|背《そむ》き難く、こわごわその蛇を捕え、明り障子を開き塵取りに入れて投げ捨て障子をたててさて帰って見ると蛇が尚元の処にいた。それを見るとからだ中から汗が出てわなわな顫《ふる》え上った。法然がそれを見て、
「なぜ取り捨てないのか」と叱る。法蓮房は今あった儘《まま》を然々《しかじか》と答えると、法然は黙って何も云わなかった。その夜法蓮房の夢に、「大竜が形を現わして、われは華厳経を守護する処の竜神である。恐るるな」と云うと思って夢が醒《さ》めたということである。
この類の奇瑞《きずい》がまだ沢山ある。
上西門院は深く法然に帰依していたが、或時法然を請《しょう》じて七カ日の間|説戒《せっかい》があったが、円戒の奥旨を述べていると一つの蛇がカラガキの上に七日の間じっとして聴聞の様子に見えた。見る人があやしがっているうちに結願《けちがん》の日になるとその蛇が死んで了《しま》ったが、蛇の頭の中から一つの蝶が出て空に昇ると見た人もあり、天人の形で昇ると見た人もある。
又法然が叡山の黒谷で法華三昧《ほっけざんまい》を行っていた時|普賢菩薩《ふげんぼさつ》が白象に乗って眼のあたり道場に現われたこともあれば、山王の影が形を現わしたこともあったという。
或時は蓮華《れんげ》が現われ、或時は羯磨《かつま》が現われ、或時は宝珠が現われるといったような奇瑞。
善導大師に就ては殊に傾倒が深かったと見え、紫雲棚引く曠野世界の中に、善導大師と対面なしたという夢を見たが、醒めて後、乗台《じょうだい》という画工に夢に見た処を描かせた。それが世間に流布して「夢の善導」という図になっているが、その面像は後に支那から渡った処のものに違わなかったということである。
生年六十六歳、建久九年正月七日|別時念仏《べちじねんぶつ》の間には特に様々の異相奇瑞が現われたということが、自筆の「三昧発得記《さんまいほっとくき》」というものに見えているということである。
八
法然が三昧発得の後は暗夜にともし火がなくても眼から光を放って聖教を開いて読んだり室の内外を見たりした。法蓮房も眼のあたりそれを見、隆寛律師《りゅうかんりっし》などもそのことを信仰していた。或時ともし火の時分に法然が、長閑《のどか》にお経を見ているようであったから、正信房がまだ燈《あか》りも差上げなかったのに、とそっと座敷を窺うと左右の眼の隈《くま》から光を放って文の表を照して見て居られたが、その光の明かなること、燈火にも過ぎていた。余りの尊さに斯様《かよう》な内証は秘密にして置いた方がよいと抜き足して出て来たそうである。
又或時夜更けに法然が念仏をするその声が勇猛であったから、御老体を痛わしく尊く思って正信房が若しも御
前へ
次へ
全38ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング