の使命を果した。法然は重衡卿から贈られた鏡を結縁《けちえん》のために贈り遣わしたということである。
寿永元暦の頃の源平の乱によって命を落したものの供養をするといって俊乗房が興福寺、東大寺をはじめ、貴賤道俗をすすめて七日の大念仏を修した時、その頃までは人がまだ念仏のことを知らなかったから、俊乗房がこのことを歎いて、建久二年の頃法然を請《しょう》じて大仏殿のまだ半作であった軒の下で観経《かんぎょう》の曼陀羅《まんだら》、浄土五祖の姿を供養し、浄土の三部経を講じて貰うことになったが、南都の三論法相の碩学が多く集った中に大衆二百余人各々肌に腹巻を着て高座の側に列んでいて、自宗の義を問いかけて、誤りがあらば耻辱を与えてやろうと仕度をしていたが、法然はまず三論法相の深義を述べて次ぎに浄土一宗のこと、末代の凡夫出離の要法は、口称念仏《くしょうねんぶつ》にしくものはない、ということを説いた処が二百余人の大衆よりはじめて随喜|渇仰《かつごう》極まりなく、中には東大寺の一和尚、観明房の已講《いこう》理真は殊に涙にむせんで、
「こうして八十の年まで長生きをしたのは偏にこのことを聴かんが為であった」といって悦んだ。
その序に天台円頓の十戒を解説したが、叡山は大乗戒、この寺は小乗戒と述べたので大衆が動揺したけれども、古老が申しなだめることがあって無事に済んだ。
法然は和歌を作ることを好んではやらなかったけれども、我国の風俗に従って、法門に事よせては時々和歌を作られたこともある。それを門弟が記し伝えたり、或は死んだ後に世間へ披露されたもののうちに、
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春
さへられぬ光もあるをおしなべて
へだてがほなるあさがすみかな
夏
われはただほとけにいつかあをひぐさ
こころのつまにかけぬ日ぞなき
秋
阿弥陀仏にそむる心の色にいでば
秋の梢のたぐひならまし
冬
雪のうちに仏の御名を唱れば
つもれるつみぞやがてきえぬる
逢[#二]仏法[#一]捨[#二]身命[#一]と云へる事を
かりそめの色のゆかりの恋にだに
あふには身をもをしみやはする
勝尾寺にて
柴の戸にあけくれかかる白雲を
いつむらさきの色にみなさむ
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極楽往生の行業には余の行をさしおきてただ本願の念仏を
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