》の行者だろう」といった。
 その後四十九日の仏事に、法然が請われて、唱導に行ったが、その時妙心房の弟子が衣裳箱をとり出して、
「これは私のお師匠様が、年頃のお持物でございましたが」
 といって法然の前へお布施として差出した。その箱を開かせて見ると、布の衣袴の尋常なると、布の七条の袈裟、ならびに十二門の戒儀をふかくおさめていた。法然がそれを見て、「それそれ、日頃源空が言ったことが違わない。この聖《ひじり》は由々しき虚仮の人であった。この持物を見ると、徳たけて人に尊ばれて、戒師になろうと思う心で行いをすましていたのだ」といったから、人が成程と分ったそうである。
 治承四年の十二月二十八日、本三位中将|重衡《しげひら》は、父清盛の命によって南都を攻め、東大寺の大伽藍《だいがらん》を焼いて了った。その後元暦元年二月七日、一ノ谷の合戦に生捕られて都へ上り、大路をわたされたり様々の憂き目を見たが、法然上人に頼んで後生菩提のことをお聴きしたいという願いが切であったから法然は対面して、戒などを授けられ、念仏のことを委《くわ》しく導道した。重衡が、
「この度生きながら、捕われたのは今一度上人にお目にかかる為でありました」と限りなく喜んで受戒のお布施のつもりで、双紙箱を取り出して、法然の前に差置いて、
「御用になるような品ではありませんが、お眼近い処にお置き下さって、一つは重衡がかたみとも御思い出し給わり取りわけて回向《えこう》をお願いいたします」
 法然はその志に感じてそれを受けて立ち出でた。
 重衡によって焼かれた東大寺を造営の為め、大勧進の沙汰があったが、学徳名望共に法然上人の右に出ずる者が無いというような理由で、後白河法皇から、右大弁行隆朝臣をお使として、この度の大勧進職たるべき御内意があった時、法然は、
「山門の交衆《きょうしゅ》をのがれて林泉のうちに幽かに栖《す》んでいることは静かに仏道を修し、偏に仏道を行せんがためでございます。若《も》し勧進の職を承るならば、劇務万端のために修行念仏の本意に背くことになりますから、どうぞこの儀は御免を願い度うございます」
 とその辞意堅固なるを見て、行隆朝臣も何ともしようがなく、このことを奏上したところ、
「では門徒のうちに然るべき器量の者があらば申出るように」
 そこで醍醐の俊乗房重源を推挙して、大勧進の職に補せられた。重源はやがてそ
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