がたし」とまで云って、右の光明房の手紙に就て法然は、「一念義|停止《ちょうじ》の起請文」をまで定めて世に示した。その文中には「懈怠無慚《けたいむざん》の業をすすめて、捨戒還俗《しゃかいげんぞく》の義をしめす」と憤り、或は「いずれの法か、行なくして証をうるや」と歎き、最後に承元三年六月十九日沙門源空と署名している。

       三十

 法然の師範であった功徳院の肥後|阿闍梨《あじゃり》皇円は、叡山杉生法橋皇覚の弟子で、顕密の碩才であったが、或時つらつら思うよう、「自分の機分ではなかなか生死を離れて成仏することは覚束ない。いろいろ生れ更って見ても仏法を忘れてしまい、人身を受けてもなお二仏の中間にいて生死を離れることが出来ない。仕方がないから長命をして慈尊の出世まで待つ外はない。命の長いものは蛇に過ぎたものはないということだから、わしは大蛇になろう。但し蛇になっても大海に棲むと金翅鳥《こんじちょう》という奴に捕えられる怖れがあるから池に棲むことにしよう」といって願を立てて遠江の国笠原庄の、さくらの池という処へ身を沈めてしまった。静かなる夜は池に振鈴の音が聞えるということである。
 法然がそのことについて言うよう。
「智恵があって、生死の出で難いことを知り、道心があって慈尊に会わんことを願うのは、殊勝のことのようであるが、よしなき畜生の趣《しゅ》を感ずることは浅ましいことである。これは浄土の法門を知らないからのことである。わしがもしその時分にこの法を発見していたならば、信不信を省みずお授け申したものを。極楽に往生した後は十方の国土を心に任せて経行《きょうぎょう》し、一切の諸仏思うに従って供養が出来る。なにもそう久しく穢土《えど》にいなければならないという筈のものではないのに、彼の阿闍梨ははるか後の世に仏のお出ましを待って現在に救わる道あるを知らずに池に棲み給うとは、おいたわしいことじゃ」
 妙覚寺に妙心房といって評判の高い僧があった。道心が深いということで、寺門を出でず、念仏を行ずる有様は非凡で、帰依する人も盛んにあったが、五十歳ばかりで亡くなった。その時の臨終の有様がさんざんであったから人々がそれをあやしんで、
「妙覚寺の聖人でさえもあの通りの有様で往生が出来ない。まして外の人をや」
 といいはやした。法然がそれを聞いて、
「さあ、それは本物ではあるまい。虚仮《こけ
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