仮令《たとい》軍陣に戦い、命を失うとも念仏さえすれば本願に乗じ、来迎にあずからんことは疑いないことじゃ」
 と細かに説いて聞かせられて忠綱は大いに喜び、
「それで悟りがひらけました。忠綱が往生は今日定まりました」
 と喜んで法然から袈裟《けさ》を貰い、鎧《よろい》の下にかけて、それより八王子の城に向い、命を捨てる覚悟で戦ったが、太刀が打ち折れて自分は重傷を負うたものだから、もうこれまでと刀を捨てて合掌し、高声に念仏をして敵の手に身を任せてしまった。その時紫の雲が夥《おびただ》しくあたりに棚引いたそうである。その時法然は叡山の方に紫の雲が棚引いたという報せを聞いて、
「ああそれでは甘糟が往生したな」
 といわれた。甘糟が国に残して置いた妻室が夢に忠綱が極楽往生をとげたという告げを聞いて驚いて国から飛脚をたてたが、京都からの使者と途中で行き会うて忠綱が戦場最期の有様を物語ったということである。
 宇都宮弥三郎頼綱が家の子郎党を従えて、済々《せいせい》として武蔵国を通ると、熊谷の入道直実に行き会うた。直実がそれを見て、
「すばらしい威勢だなあ。しかし、いくら家来を大勢連れたからとて、無常の鬼という奴が来れば防ぐことは出来ないで、お前いつ迄もそうして強者顔《つわものがお》をして威張っていたからとて念仏の行者にはかなわないぞ。弥陀如来の本願で念仏するものは悪道に落されず迎えとられるのだ。念仏をすることは一騎当千の強者になるよりも豪《えら》いことだぞ。お前も軍《いく》さ人《びと》なんぞは早く止めて念仏をしろ念仏をしろ」
 といわれたのが頼綱の胆にそみていた。直実の奴うまく侍を卒業しやがったな。おれも負けるものかという気になって、大番勤仕《おおばんきんじ》の為に京都へ上った序《ついで》に、承元二年十一月八日のことであったが、法然を勝尾《かちお》の草庵に訪ねて念仏の教えを受け一向専修の行者になってしまった。
 法然が亡くなった後は善恵房《ぜんえぼう》を頼んでいたが、結縁《けちえん》の為めに四帖の疏の文字読みばかりを受け、遂に出家して実信房蓮生《じっしんぼうれんしょう》と号しその後夢に善光寺の本尊を感得したりなどして承元元年十一月十二日芽出度い往生をとげた。
 上野国の御家人薗田太郎成家は秀郷《ひでさと》将軍九代の孫、薗田次郎成基が嫡男《ちゃくなん》であるが、武勇の道に携わり、射※[
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