#「けものへん+臈のつくり」、第3水準1−87−81]《しゃかつ》を事として罪悪をほしいままにしていたが、正治二年の秋これも大番勤仕の為に京都へ上って来た時、法然の念仏が一代に盛んなことを聞いて何気なく自分も行って見ようという気になって教えを受けた処が、たちまち信心胸に満ち、その年の十月十一日に生年二十八歳で出家してしまって法名を智明《ちみょう》とつけ、法然の手許に六年も給仕をしていたが、元久二年に本国に下って、家の子郎党二十余人を教導して同じく出家させて同行とし、酒長《しゅちょう》の御厨《みくりや》小倉の村に庵室を建てて念仏伝道をしていた。世の人が尊んで小倉上人《おぐらのしょうにん》と称んでいた。なお庵室の西一丁余り隔てて一間四面のお堂を建てて、お堂の妻戸に庵室の戸を開け合せるようにし、仏前の燈明を摂取《しょうじゅ》の光明と思って常に光明遍照《こうみょうへんじょう》の文を唱え、真心を現して発露啼泣《ほつろていきゅう》していた。そこでここを訪れる人々皆感化されて念仏をしない者はなかった。
或年元日の祝言にこう云うことをはじめた。それは一人の下僧に言い含めて、高らかに曰わせるよう。
「この御庵室にもの申す。西方浄土《さいほうじょうど》からお詣りが遅いから、急いでおいでがあるように阿弥陀仏からのお使いでございます」
そこで成家が喜んでその僧を客殿へ招き入れ、丁寧にもてなし様々の引出物を与えることにした。これがその後ずっと元日の吉例になっていたということである。
その辺の山里には鹿が多くいて、作物を荒すので百姓達は田畑に垣を作って防いでいるのを見て成家はわざわざ上田を三丁程作らせて鹿田と名付け、鹿の食物にさせた。
なお田植唄には念仏を唱えさせることにした。宝治二年の九月に少しからだが悪かった。その時弟の淡路守後基を招きよせて、
「わしはもう老病で遠くはあるまい。対面も今日が限りだろう。お前も罪悪深重の人であるから必ず念仏をして、わしと同じ様に浄土へまいるようになさい。仮令《たとい》鹿鳥を食べる時にも念仏を噛みまぜて申すがよい。たとい敵に向って矢を引くとも念仏を捨ててはならない」
と教訓した。弟を帰してから後で同族を集めて念仏をし、その翌日十六日に端座合掌して光明遍照の文を誦し、高声念仏一時間ばかり唱えて禅定《ぜんじょう》に入るが如くにして息絶えた。生年七十五。最
前へ
次へ
全75ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング