を聴いて真実の信念を起し、毎日六万遍の念仏を誓ったという、この律師、道心純熟し、練行積って三昧発得《さんまいほっとく》の境に達した。この律師の教風を「多念義《たねんぎ》」とも、「長楽寺義《ちょうらくじぎ》」とも云う。
 遊蓮房円照は入道少納言通憲の子、二十一歳にして発心出家、はじめは法華経をそらに覚えて読誦していたが、後には法然の弟子となって一向に念仏する。法然も、
「浄土の法門と遊蓮房に会ったことは、人界に生を受けた思い出である」
 といわれたそうであるからなかなか堅固な行者であったろうと思う。

       四十五

 勢観房源智は備中守|師盛《のりもり》の子、小松内府重盛の孫であって、平家が滅びた後、世を憚《はばか》って母御がこれを隠していたが、建久六年十三歳の時、法然の処へ進上した。法然はこれをまた慈鎮和尚に進上せられ、そこで出家をとげたが幾許《いくばく》もなく又法然の処へ帰って十八年間を通じて常に給仕をしていた。そこで法然もあわれみが殊に深く浄土の法門を教え、円頓戒《えんどんかい》を附属した。そこで道具、本尊、房舎、聖教、皆相続されることになった。法然の最期の時が近づいた際に勢観房は、
「年頃お教えにあずかって居りますが、なお肝腎のところを御直筆で一つ残して置いていただきとうございます」と願った。そこで法然が筆をとって書いたのが上人の「一枚消息」、所謂《いわゆる》一枚起請である。
[#ここから1字下げ]
もろこし我朝。もろもろの智者たちのさたし申さるる。観念の[#「観念の」は底本では「観然の」]念にもあらず。又学問して念仏の念をさとりなどして申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには。南無阿弥陀仏と申してうたがいなく。往生するぞとおもいとりて申すほかには。別の子細そうらわず、ただし三心四修《さんじんししゅう》など申すことの候は。決定《けつじょう》して南無阿弥陀仏にて往生するぞと。おもううちにこもり候なり。このほかにおくふかきことを存せば二尊のあわれみにはずれ。本願にもれ候べし。念仏を信ぜん人は。たとい一代の法をよくよく学せりとも。一文不知の愚鈍の身になして。尼入道《あまにゅうどう》の無智のともがらに同うして。智者のふるまいをせずして一向に念仏すべし。
[#ここで字下げ終わり]
 師の法然が亡くなってからは加茂の辺りささぎ野という処へ庵《いおり》を構えて住
前へ 次へ
全75ページ中69ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング