んでいた。何故にこんな処に住んでいたかというと、その以前法然が病気の最中に、いずくよりともなく車を寄せたものがあって、中から貴女が一人降りて法然に面会した。その時看病の僧達は外出したものもあり、休息しているものもあって、勢観房だけがただ一人障子の外で聞いていると、その貴女の声で、
「まだ今日明日のこととは思いませんでしたのに、御往生が近いような様子、この上もなく心細いことでございます。さて御往生の後は念仏の法門のことなどは、どなたに申残し置かれましたか」
と尋ねられる。法然が答えて、
「源空が所存は撰択集に載せてあります。撰択集にちがわないことを云う者こそ源空が宗旨を伝えたものであります」
それから暫く物語りなどあって貴女は帰って行かれたが、その気色はどうも只人とは思われなかった。そこへ外出の僧達も帰って来たから勢観房は車の後を追いかけて見ると河原へ車をやり出して、北を指して行ったが、かき消す様に見えなくなってしまった。帰ってから法然に、
「只今のお客の貴婦人はどなたでございますか」と尋ねると、法然が、
「あれは韋提希夫人《いだいげぶにん》である。加茂のほとりにいらっしゃるのだ」
といわれた。そんな因縁でこの地へ居を定められたのだが、この人は隠遁を好み自行をもととして、どうかすると法談をはじめても、所化《しょけ》五六人より多くなれば、魔縁をひくだろう、ことごとしいといって止めてしまったということである。生年五十六。暦仁元年十二月十二日に往生をとげた。
遠江国蓮華寺の禅勝房は、天台宗を習ったが、自分の器《うつわ》ではこの教えによって救われることはなりがたいと思って、熊谷入道の処へ行って、念仏往生の道を聴いたが、熊谷が一通り教訓を加えてから、くわしいことは我師法然上人にお尋ねするがよいと手紙をくれたから、京都へ出て吉水の庵で法然の教えを受けたものである。そして法然給仕の弟子となり信心堅固の誉があった。この僧がいろいろ法然に向って不審を尋ねたに就いて、法然がよく親切に返答を与えている。その中で、
「自力他力と申すことは、如何様に心得たらよろしゅうございますか」
法然答えて、
「わしは云い甲斐なき遠国の土民の生れである。全く天子の御所へなど昇殿すべき器のものではないが、上より召されたから二度までも殿上へ参ることになった。これと云うのは上の力である。
これと同じこ
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