も毎日阿弥陀経三巻を読みました。一巻は呉音、一巻は唐音、一巻は訓でありました。けれども今は一向称名の外には他のことはいたしません」
といわれたので四十八巻の読誦を止めて毎日八万四千遍の称名を勤められた。
建久三年の頃叡山の根本中堂の安居《あんご》の結願に、誰れを導師にという沙汰のあった時に隆寛がその器量であるという評判であるところが、一方には、「あれは法然の弟子となって、専修念仏を行とする上は、我が山の導師とするは不都合である」と非難するものがあったが、何分外にその人がないというわけで、異論をなだめて招請されたが、壇に上って大師草創のはじめより、末代繁昌の今に至る迄、珠玉を吐くような弁舌に衆徒が感歎随喜して、その時はまだ凡僧であったけれども、東西の坂を輿に乗って上下することを許された。
法然が小松殿の御堂に在《あ》った時、元久元年三月十四日律師が訪ねて行った。法然は後戸《しりど》に出迎えて、懐《ふところ》から一巻の書を取り出して、
「これは月輪殿の仰せによって選び進ぜた処の撰択集である。善導和尚が浄土宗をたてた肝腎が書き記してある。早く書き写して見なさるがよい。若《も》し、不審があらば尋ねおききなさるがよい。但し源空が生きている間は秘密にして置いて他見せしめないように、死後の流行は已《や》むを得ない事だが」
といわれたので、急いで尊性、昇蓮等に助筆をさせて、それを筆写し、原本は返上されたことがある。
並榎の竪者《りっしゃ》定照が訴えにはじまって法然の門徒が諸国へ流されるうちに、この律師は最も重いものとして見られていて、自分も覚悟していたが、果して配所は奥州ということであって森入道西阿《もりのにゅうどうさいあ》というものが承って配所へ送ることになり、嘉禄三年七月五日都を進発したが、森入道は深く律師に帰依していたので、そっと門弟の実成房というものを身代りに配所へやって、律師は西阿が住所相模の国飯山へ連れて行き、そこで大いに尊敬して仕えていた。同年の冬、病にかかった時筆を執って身の上のことを書き起したが、それを羈中吟《きちゅうぎん》という。間もなく春秋八十歳で念仏往生を遂げた。
この律師が鎌倉を立って飯山へ下った時に武州|刺史朝直朝臣《ししともなおあそん》、その時二十二歳、相模四郎といったが、律師の輿の前で対面して仏道のことを尋ねている。刺史朝直朝臣はその教え
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