を見て忽ちに発心出家した。上人給仕の弟子法阿弥陀仏がその人である。
 嵯峨正信房湛空《さがのしょうしんぼうたんぐう》は、徳大寺の左大臣(実能)の孫であったが、これも聖道門を捨てて法然の弟子となり、一筋に浄土門へ行った。法然が流された時も、配所まで伴《とも》をして行ったが、その時船の中へ法然の像を張って置いた。それが「船のうちのはり御影」といって、後嵯峨の塔に残っていた。生年七十八。建長五年七月二十七日よき往生を遂げた。
 播磨の国朝日山の信寂房はやはり法然のお弟子であったが、明恵上人の摧邪輪《さいじゃりん》を破る文をつくり著わしたが、義理明晰をもって聞えている。
 醍醐乗願房宗源(号竹谷)は多年法然に仕えて法義をうけていたが、深く隠遁を好み道念をかくして、医者であるといって名のり又音律のことなどを人に語ったりなどしていた。けれどもその徳隠れなく、或る貴女がこの僧に深く帰依していたが、その貴女より、沈《じん》の念珠を贈られた。宗源もこれを愛して、この念珠で日夜念仏していたが誰れもこのことを知らなかった。処が或一人の修行者が雲居寺にお通夜をしてまどろんでいると堂の前へ、無数の山伏が集って何か騒いでいる。それを聞くと山伏の一人が、「あの醍醐の乗願房の救われるのをさまたげてやろうじゃないか」というと一人の山伏が「あれはなかなか信念が堅くて妨げられないが、ただ一つ貴女から貰った念珠を大事にしている。あれを種子にして一つ妨げてやろうではないか」という夢を見たので、乗願房の庵室へ訪ねて来て、それとなく尋ねて見ると、なる程その珠数をもっている。修行者は乗願房から謂《いわ》れを聞くと走り寄って乗願房の持っていた念珠を奪い取って火の中になげ込んでしまった。乗願房が驚いて尋ねると、修行者がはじめて夢のことを委《くわ》しく語ったので、乗願房は却って修行者のなしたことを喜んだという話がある。醍醐の菩提寺の奥、樹下の谷という処に長く隠居していたが、後清水の竹谷という処に移り建長三年七月三日生年八十四で往生を遂げた。

       四十四

 長楽寺の律師隆寛は、粟田関白五代の後胤、少納言資隆の三男であったが、慈鎮和尚の門弟であり、後浄土に帰して法然の弟子になった。毎日阿弥陀経四十八巻を読み、念仏三万五千遍を唱えていたが、後には六万遍になった。或時、阿弥陀経転読のことを法然に尋ねた処、
「源空
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