加えたによって重ねて荘厳記という一巻を作って、それに答えたけれども却って、名誉を落されたということである。入道民部卿長房卿は明恵上人に帰依の人であったから、その摧邪輪を信じて高野の明遍僧都に見せようとした時、僧都が、
「何の文ですか」
 と尋ねたのに、
「撰択論を論破した文です」
 と云われたから、明遍、
「わしは念仏者でございます。念仏を難破した文章をば手にも取るわけには行きませぬ、眼にも見る気は致しません」
 といって返されたが、後にはこの民部卿入道も撰択に帰して、「何れの文が邪輪なるらん」といわれたということである。
 その後仁和寺の昇蓮房が、かの摧邪輪をもって明遍僧都に見せた処、僧都が云うのに、
「凡そ立破《りゅうぱ》の道はまず所破《しょは》の義をよくよく心得てそれから破する習いであるのに、撰択集の趣をつゆつゆ心得ずして破せられたる故にその破が更に当らないのである」
 という意味でとり合わなかったという。この僧都は論議|決択《けっちゃく》のみちにかけては日本第一の誉れのあった人である。
 明恵上人も後に菅宰相為長卿の許へ行った時に摧邪輪のことが話に出た時、
「そういうこともありましたけれども、ひが事であると思って今は後悔して居ります」
 といわれたそうである。
 禅林寺の大納言僧都静遍は、池の大納言頼盛卿の子息で、弘法大師の門であり、はじめは醍醐の座主勝憲僧正を師として小野流の流れを受け、後には仁和寺の上乗院の法印仁隆に会って広沢の流れを伝え、事相教相抜群の誉れのあった人であるが、一代がこぞって撰択集に帰し、念仏門に入る者が多いのを見て、嫉妬の心を起して、撰択集を破し、念仏往生の道を塞ごうと思ってその文章を書く料紙までも整えて、それから撰択集を開いて見た処、日頃思っていることに相違して却って末代悪世の凡夫の出離生死の道は偏《ひとえ》に称名の行にありと見定めてしまったから、却ってこの書を賞玩して自行の指南に備えることとし、日頃嫉妬の心を起したことを悔い悲しんで、法然の大谷の墳墓に詣でて泣く泣く悔謝し、自から心月房と号し、一向念仏し、その上に「続撰択」を作って法然の義道を助成した。

       四十一

 毘沙門堂《びしゃもんどう》の法印明禅は、参議成頼卿の子息で、顕密の棟梁山門の英傑とうたわれた人であるが、道心うちに催し隠遁のおもいが深かった。はじめて発心
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