の因縁というのをきくと、或時最勝講の聴衆にまいったが集まる処の貴賤道俗が、きょうを晴れと身栄を飾り、夢幻泡沫のこの世にあることなどを念頭に置くものは一人もなく、僧は僧で別座を設けて従者を具し、童を従えておさまり込む。集る身分の高い者は高い者、低い者は低い者、皆それぞれ栄耀をして走り廻っている有様を見て、つくづくと人間の浅ましさを感じ、隠遁の思いが胸に定まったということである。法然の念仏興行も余り流行するものだから、ついそねみ心が起ってその勧化《かんげ》などを聴かず、でも自分の出離の途といっては、いまだ定まった解決もつかずに籠っていたが、或時法然の弟子の法蓮房に会って、念仏の法門を話した時に、法蓮房から法然著わす処の撰択集を贈られたのを開いて見てはじめて浄土の宗義を得、称名の功能を知り、信仰の余り改悔の心を起し、撰択集一本を写しとどめて、双紙の袖に「源空上人の撰択集は末代念仏行者の目足なり」と書きつけ、尚その上にまた述懐の鈔を記して法然の行を賞め申された。

       四十二

 法然が亡くなってから、順徳院の建保年間、後堀川院の貞応嘉禄年間、四条院の天福延応年間などたびたび一向専修の宗旨を停止《ちょうじ》の勅命を下されたけれども、厳制すたれ易《やす》く興行止まりがたく、念仏の声は愈々《いよいよ》四海に溢れた。
 ここに上野国から登山した並榎の竪者《りっしゃ》定照という者が深く法然の念仏をそねみ「弾撰択《だんせんじゃく》」という破文を作って隆寛律師の処へ送ると律師はまた「顕撰択《けんせんじゃく》」という書を作って「汝《なんじ》が僻破《へきは》の当らざること暗天の飛礫の如し」と云うたので、定照愈々憤りを増し、事を山門にふれて、衆徒の蜂起をすすめ、貫首に訴え、奏聞を経て隆寛幸西等を流罪にしその上に法然の大谷の墓をあばいて、その遺骨を加茂川へ流してしまうということをたくらんだ。
 それが勅許があったので、嘉禄三年六月二十二日山門から人をやって墓を破そうとする、その時に六波羅の修理亮《しゅりのすけ》平時氏は、家来を伴《つ》れて馳せ向い、
「仮令《たとい》勅許があるにしても、武家にお伝えあって、それから事をなさるがよいのに、みだりに左様の乱暴をなさるのはよろしくない」というて止めたけれども承知をしない。墓を破り、家を破し、余りの暴状に見かねて、「その儀ならば我々は武力を以て
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