て、皆悉く往生の行のうちに摂している。何ぞ独り法華だけが漏れる筈がない。普《あまね》く摂する心は念仏に対してこれを廃せんが為である」
 といった。使が帰ってこのことを語ると僧都は口を閉じて言葉がなかったということである。
 或時|宜※[#「火+禾」、第4水準2−82−81]門《ぎしゅうもん》の女院が中宮で一品《いっぽん》の宮を御懐妊の時に、法然は御戒の師に召され、公胤は御導師としてまいり合せたことがあった。御受戒が終って法然が退出しようとした時に、僧都の請によって暫く問答することになった。僧都は法然に向い、
「上人には念仏のことをお尋ね申すのが本来であろうがまず大要なるにつきて申して見ると、東大寺の戒の四分律《しぶりつ》であるのは如何なる謂《い》われでござろうか」
 そこで法然は東大寺の戒の四分律であるべき道理をつぶさに話して聞かせた。僧都が帰って考えて見ると法然の云われたことが少しも違わなかったから、次の日又参会の時、
「昨日お仰せになったことは、まことにお言葉の通りでございました」
 といって、法然を尊敬し、それから浄土の法門を話したり、その他のことを語った。その時僧都が玄※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]《げんうん》をぐえんくい[#「ぐえんくい」に傍点]と読んだので法然がそれは暉と書けばくい[#「くい」に傍点]と読ませるが、※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]と書いてはうん[#「うん」に傍点]と読むのがよろしいと訂した。すべて斯様な誤りを七カ条まで訂されたので、僧都が罷り出でて後弟子に語って云うには、
「今日法然房に対面して、七カ条の僻事《ひがごと》をなおされた。常にあの人に会っていれば学問がどの位つくかしれぬ。あの人が立てた処の浄土の法門が仏意に違っているということはない。仰ぎて信ずる外はない。あの上人の義を謗《そし》るは大きなる咎《とが》である」
 といって自分の拵《こしら》えた決疑抄三巻を焼いて了った。そういう因縁があって法然歿後の法要の導師を勤め前非を懺悔し、念仏の行怠りなく、建保四年|閏《うるう》六月二十日に七十二の年で禅林寺のほとりに往生を遂げられた。
 栂尾《とがのお》の明恵上人《みょうえしょうにん》(高弁)は摧邪輪《さいじゃりん》三巻を記して撰択集《せんじゃくしゅう》を論破しようとした。法然の門徒がこぞって難を
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