で新たに建て増した成進寮というのではすべて今でもこの石油ラムプを使って居る。前に云う通り電力業者の誇る所によると、日本は電燈国としても世界一とか二とか云う程に発展して居るのであると云うが、それは日本程水力に恵まれた国は無いという事を抜きにして云う自慢に過ぎない、併しフランスの如きは聞えたる華美の国でありながら一歩地方へ出て見ると農民の生活などは至って古朴なもので、大部分はやはり石油ラムプで済まして居るという、それだから農家でさえ電燈がこれだけ豊富に使える日本の農民は有難く心得ろというのは僭越である。フランスの農民は決して日本の農民ほど行きづまった生活はさせられて居ない筈である。

       二十四

 そういう訳で弥之助の植民地に近いあたりの農村状態はすべて平板へ平板へと進んで行って、表面は兎に角内容生活は少しも向上したとは思われない、のみならずいよいよ唯物的に流れ流れて、さっぱり趣きというものが無くなってしまって居る。弥之助はこの沿革をもっと科学的にしらべて書いて見たいと思って居るが、さし向き人間の方から見ると、昔と違って度外れの人間というものが、すっかり後を絶ってしまったように見える。
 傑《すぐ》れた人物というものも出ないし、また異常なる篤行家とか奇行家というのもとんと出ない、また昔は名物の馬鹿が各村に存在して居たのだが、今はそういう馬鹿も全く影をひそめてしまった。
 ここに弥之助が少年時代の思い出をたどって少々村の畸人伝《きじんでん》をしるして見よう。
 砂川村に俗に「おてんとうさま」という荷車|挽《ひ》きがあった、本名は時蔵というのであるが、この人は砂川の村から青梅《おうめ》の町まで約四里の道を毎日毎日降っても照っても荷車にカマスを積んで往復する。その時が毎日一分一秒も違わない、おてんとうさまと同じ事だというのである。それ時さんが通ったからお昼飯だというような事になって、おてんとうさま扱いを受けたのである。弥之助は子供の時分何年となくこのおてんとうさまが車を挽いて家の前を通るのを見るに慣らされて居た。
 新町に「為朝《ためとも》」というのがあった、毎日山から薪を一駄(三把)ずつ背負い出して来て、
「どうだい今日は薪を買わねえかい」
と云って売りあるいていた。薪が売れてしまえばそれで居酒屋へ這入《はい》ってコップをぐっと引っかけておさまり込んでしまう、一日それ以上の仕事も以下の仕事もしない、一駄の薪がたしか十八銭もしたと思うが何しろ大コップに一ぱい酒が二銭位の時分だから相当に飲めたものと思う。それで年中酔っぱらって頬ぺたをふくらませてはおろちの様な息を吹き吹き歩いて、夜は寒中平気で堂宮の縁でも地べたでも寝込んでしまう。絶えず酔っぱらって居たが誰も為朝が飯を食うのを見たというものがない、額に大きな「痣《あざ》」があった処から為朝一名を「あざ為」と云ったが、誰も本名を知った者がない。右の如くして、毎日一駄の薪を限って切り出して、それを売りそれを呑むの生活を一生涯つづけた。その薪というのも、手当り次第に人の山へ這入って取って来るのだが、今と違って至るところ見え通らない程雑木林は続いて居たし、人気も鷹揚《おうよう》であったから為朝が持ち去る程度の盗伐は誰もとがめるものはない。或時新来の駐在所巡査がこの男をつかまえて薪の出所を糺問《きゅうもん》しきびしく叱りつけて居るのを見て村人が、
「為朝をあんなに叱言《こごと》云わなくてもよかんべいに」
と云って、かえって同情をして居た事がある。弥之助の家へもちょいちょい売りに来たが、父がこの為朝から薪を買い入れて、それから炉辺で話し込んだ事を度々《たびたび》覚えて居る。何でも二人で水滸伝《すいこでん》の話に頻《しき》りにうち興じて居た様であったが、為朝はあれで中々学者だと云って感心して居た。
 それから栄五郎ボッチというのがあった、これもしじゅう飲んだくれで、赤黒い長い顔をして頭には白髪がもじゃもじゃ生えてすっかり人を食った顔つきをして居た。これは豆腐《とうふ》と油揚を木の手桶へ入れて天びんにかけて売り歩いて居た、そうして売上げを持っては当時水車をして居た弥之助の処へ来て母の名を呼んで、
「花さん、破風《はふ》を五合《ごんごう》に白米を一升呉んな」
と云って風呂敷を出しては買って行った、これも酔っ払いではあるが為朝と違って穀物を食うのである。ここに破風と云うのは大麦の碾割《ひきわり》のことである。つまり大麦の碾割が三角形になって居る、家々の破風の形によく似て居る、そこが栄五郎ボッチの形容新造語であるらしい。
 亀先生は生《は》えぬきの百姓の子で、どちらから云っても学問の系統などは無いのであったが、どうしたはずみか学問に味を占めてそれから熱中してしまった、学問と云ったところでその時分は漢学であったが、先生は村で習えるだけの漢学は習い尽し村で読めるだけの本は借りて読みつくし、とうとう我慢が出来ず東京へ学問をしに出かけた。
 こればっかりは本当に学問が好きで出かけたので、学問をしてサラリーに有り附こうとか出世しようとかの欲望は更に無かった。そうして人力車を挽《ひ》いたり、風呂炊きになったり様々の職業をやりながら二松学舎に通った。
 その時分の事、書生が大勢集まってお茶を飲み餅菓子を盛んに食べて談論するのを見て、先生は書生の分際であんな餅菓子などをおごるのは僭越だ、おれはそんな贅沢なものは食わない、沢庵で結構だと云いながら沢庵を持って来させて、それをガリガリかじりながら同学の書生達と盛んに談じ込んだものであるが、席が終ってさあお茶菓子代の支払と云う段になって、書附を見ると亀先生の噛《かじ》った沢庵が大物三本、餅菓子よりははるかに高価であったという。
 そういう訳であるから折角学問はしても生活にはうとく、業成って村へ帰って来てしばらく村の学校にやとわれて教師をして居た事もある。その時分の小学教師は今のように資格がどうのこうのという事は無いから、亀先生は先生もすれば百姓もして居て、袴を取って学校から帰ると仕事着をつけて股引わらじで籠を背負い、鮑貝《あわびがい》を杓子《しゃくし》の様にこしらえたものを携《たずさ》えて、街道に落ちて居る馬糞《ばふん》拾いをして歩いたものだ。そこで或日の事、学校へ来ると生徒が、
「馬糞先生《まぐそせんせい》が来た」
と云った軽蔑の言葉を聞き込んで、亀先生は師弟の道がもうおしまいだと云って学校をやめてしまった。
 何かの用で郡役所の窓口へ出かけた事がある、受附があんまり風采のあがらなさ過ぎる百姓姿を見て何か書かせる時に、
「田村亀吉(亀先生の本名)名前が書けるか」
と云いながら紙筆を出した、そうすると亀先生は受附の顔を見ながら、
「おれは書けるがお前はどうだ」
と云って筆を取って書いた文字が米元章の筆法で雲烟の飛ぶ名筆であったので、受附先生もあッと云って言句がつげなかったという事がある。
 亀先生の長話は有名なもので、先生の訪問を受けた場合には薪二把を覚悟して居たという程である。少なくとも、一かかえある薪を炉の中で二把燃やし尽くすまでは帰らないと云うあきらめを持たせる事になって居た。亀先生の最も得意とするのは「易」で更に易経から易断を立てる法へ進出して来た。そうして天下国家の事から失物《うせもの》判断縁談金談吉凶禍福に至るまでを易を立てて自ら楽んだり人に施したりして、自分の易断の自慢話を初める。弥之助の父親なども、それを聞かされているうちに、よく居眠りをしてしまう、相手が居眠りをしても何でも話す方は一向ひるまず、一人がてんでから/\と高笑いを交えながら話し立てて、とうとう鶏が鳴いてはじめてやっと気がついてあわてて帰るところなど、弥之助も炉辺に傍聴して見きわめた事である。易断に凝《こ》った結果、或学者の紹介で横浜の高島嘉右衛門に入門し、そのすすめで易経の暗誦を初め、田や畑の中で朗々と易経を唸《うな》りながら仕事をするのをよく見かけたものだ。弥之助は少年時代この人について少々漢学を習い、また初めてこの人につれられて東京へ出て来た縁故がある。
 是等は皆その当時の村の畸人《きじん》の一部であるけれども、今ではこういった様な桁外《けたはず》れの人間はすっかり影をひそめてしまって、製造した様な人間のみ多くなってしまった、丁度田圃が碁盤の目の様に整理されてしまい、水道がコンクリートの護岸で板張の様な水底に均《な》らされてしまい、蜿蜒《えんえん》と連なった雑木林が開墾されて桑園とされてしまった様に、平明開発はあるけれども蝦蟇《がま》も棲《す》まないし狐兎も遊ばなくなった。奇物変物もすっかり影をひそめてしまった。では富の程度でも幾分か増進したかと問えば、それどころかこの村でも目下一戸当り千円の借金に喘《あえ》いで居る。

       二十五

 百姓弥之助は東京から植民地への帰りに、新聞を見るとドイツ軍のオースタリー侵入の記事が目に附いた、それと共にチェコスロバキアがふるえ上って居るという脇見出しもある。英国が準戦時体制を整えたという別見出しもある。
 いよいよヨーロッパも再び行く所まで行かなければ、引けない時代が来たと思わしめられない訳には行かない。従ってそれが東洋へ波動して来るのは知れた事である、どうしてもこの世界全体が、行く所へ行かなければ納まらない時代を直感する。
 要するに世界の人間が、皆生き度いのである、生きる土地を求め度いのである。生きる土地を求める為に殺し合って行くという時代が到来したのではないか。ドイツでは各種の社交クラブは勿論の事、茶屋小屋の卓のビールのコップの下に敷く紙に迄も、
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ドイツには植民地が無い、植民地の無いのは手足が無くて胴だけの人間と同じ事だ、国民は一致協力して軍備を充実し、生産を増加する為に、臥薪嘗胆《がしんしょうたん》をしなければならぬ。
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という事を書いて示して置くそうである。
 奪われたるものはその植民地を取り戻さんとし、持たざるものはその植民地を持たんとし、持てるものはその植民地を擁護しようとし、地上に血みどろの世界を現出して居る。それは百姓弥之助が持つ、僅かに一町歩の植民地問題とは訳が違う。
 一町歩の植民王たる弥之助が、昔から植民の文字に多大な魅惑を感じて居たのは、今の世界共通の血みどろな土地要求の叫びとは違っていた。弥之助は那須の平野だの、八ヶ岳の麓だの、また北海道の平野などを旅行した時、植民部落というものを見ると、いつも胸が躍《おど》ったのである、打ち続く処女林がある、その中を掘割の清水がたぎり流れる、掘立小屋同様の移住民の住居、労働婦を兼ねたお神さんの肉体、ああいう原始味が今日でもどの位、弥之助を魅惑しているか解らない、そこには張り切った労働を基調とする生々たる平和がある、健康の躍動から来たるところの、溌剌《はつらつ》たる肉体の自由がある、弥之助は都会のどんな大廈《たいか》高楼にも魅惑を感じないが、この原始的生活の植民情味というものには、渾身の魅惑を感じない訳には行かない。弥之助の最初の理想では植民は侵略ではない、侵略と全く違った天業である、この点では清教徒の北米移住を少年時代に読んだ文字のままが先入主となって、人間の清新にして真正なる自由は植民の天地にのみ求め得られるような夢が今だに去らない。
 従って百姓弥之助は植民は即ち宗教だという先入主から離れるわけに行かぬ、凡《およ》そ侵略とは根本から種苗を異にしたものが即ち植民である。
 北米と南米とは、どうしてああまで開発の相違があるか、地味に於て物資に於て寧ろ北来に優る南米が、何故に文化に遅るること今日の如きか――という問題に答えたある人の答えを記臆している。
 北米を開いたものは信仰の人であった、が、不幸にして南米に着手した人は掠奪の人であった、北米には自由を求めんが為に、信念の鍬を打ち込んだ人が渡ったが、南米には富と物資を覘う我利我利が走《は》せつけた、北米に植民した人はその土地を己《おの》れの土地として、神の土地と
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