して愛したが、南米に赴く人は、慾の対象として、物資の乱掘場として、跡は野となれという人によって先発せられたのである――その結果が今日に於て知るべきである云々《うんぬん》。併し、今日では、もはや、地球上のいずれにも自由と信仰を誘うほどの処女地は窮尽してしまったと思われる。
二十六
百姓弥之助は荻窪で立臼《たちうす》と杵《きね》を一組買い求めた。
臼は尺五寸位の欅《けやき》、極小さなもので二升位しか搗《つ》けない、新品だが少々ひびが入っている、杵をつけて六円で買い求めた。
弥之助は、植民地で、地殻搗《じがらつ》きをはじめたいと思っている、どうしても一通り農業を原始的に戻してやって見たい、長い杵を足で、ジタンバタンと臼搗きをする、あれをやって見たいと、その出物を近村に求めたが容易に揃わない、やっと杵だけは相当のものを入手したが、臼が容易に見つからない、コンクリの近頃出来のものならば、安くてあるが、あれを使用する気にはならない、やる以上は、古典的に松か欅、そうで無ければ石の臼が欲しい。
新規に造らせると、二尺未満のもので二十円から二十五六円もする。併し、まあ、何とかして地殻設備は完全にするつもりだ、一たい農業も、自家で取り上げた穀を精米所へやって搗かせるのでは徹底しない、砂を入れて搗くとか、ゴムロールは胚芽の精分をすっかり磨りつぶして死米としてしまうとか、そういう事は別として、搗き上げるまで、どうしても自家でやらなければ、九仭《きゅうじん》の功ということになり兼ねないと思われる。今時、電気と機械の世の中に、じったんばったんと、原始的労力を加えるなどは、福沢流に体育化しない限り、不経済の極《きわみ》と云わなければならないが、ああしていると全く安心の出来る食料が得られるし、その搗き砕けや糠《ぬか》は、家畜の飼料その他に有力な利用となる。
すべて機械文明というものは、劇薬的のもので、人目を驚かす偉力を発揮して今日に至っているけれども、これを永久に平均した人体或いは団体健康の上から見ると大きなる疑問がある。すべての仕事を一度原始的に引き戻して、人間自然の発祥から比較検討し直して見ることの予習をやって見る必要は無いか。
人間が機械を駆使して自然を征服した、今度は機械が人間を駆使してこれを征服するの時代となるのではないか、どうかそうでない様にしたい、人間と機械が相依り相助けて行く世の中に是正は出来ないものか。
二十七
三月の半ば百姓弥之助は東京から帰り道、武蔵野原の自分の山林へと立ち寄って見た。
松林はよく掃除されている、雑木林の落葉は、まだ手廻り兼ねて大部分残されている。
百姓弥之助は山林が好きで、殊に武蔵野の雑木林と来ては、故郷そのものの感じである、本来はこの雑木林の中に家を建てたいのだが、何分|此処《ここ》は水の手が無い、植民地のある処は四十尺も掘れば水に不足は無いが、それから十余町離れたこの地点では百尺以上も掘らなければ水が出ない、それでもどうかすると当り外れがある、それが為に、この雑木林の中の生活を思い止まっている。それでも、この近いところへ最近バラックを一つ建てた人がある、そこへ寄って見ると、越後から来たという青年が、たった一人でこの小屋を守っていた。別だん思索哲学に耽《ふけ》る目的ではなく、百坪ばかりの地を求めて、自ら耕作もし、日雇取りにも行く、水はどうすると云えば、数町離れた葡萄園《ぶどうえん》から貰うのだと答える。
曇り勝ちで、今にも雨が落ちて来そうだが、存外長持がしている、植民地へ着いて見たが、変った事は無い、麦が青い色をしている、四頭の豚も、十羽の鶏も、二匹の猫も健在だ。
今年の冬は、好天気続きで降雨降雪というものが甚だ少ないから、麦の出来が、どんなものか知らん――予想した人によると、今年は麦が不作だろうと云っているものがある、が大した事はあるまい、収穫時の降りだけが気にかかる。
ずっと離れた道路面に置いてあった印刷工場を門内の道場の中に取り入れた、小野生が一人その中で頻《しき》りに植字文選をしている、志村生は休み、活版所を継続するに就いては、二三十年来、弥之助は並々ならぬ苦しみをしている、これに投じた費用労力も尠《すく》ないものではない、いつも功が労に伴わない恨みがあって、放棄して専門店に任せた方が、すべてに便利だとは思うけれども捨て難い、小さくとも手許に自己の活版所を持っているということには、計数の出来ない利便がある、それでも、ボツボツと集めたり放したりしているうちに、八ポの活字と九ポの活字で、先ず一通りの用は足りるだけになっている、このあたり三郡を通じて、これだけ豊富に活字の揃っている工場は無い――(ただ一箇所の東京出版の会社を除いては)――ということになっている。九ポの方は、もう大ぶ磨滅したから、鋳込《いこみ》直しをしなければならない。
二十八
百姓弥之助は毎月数十種の雑誌に眼を通して居る、それはほとんど全部が皆交換寄贈を受けるものであった。それを弥之助はことごとく眼を通して居る、どんな小さい引札の様なものでも、読まないと云う事はない、そうして読んだ後は要領の索引を作って併せて保存して置く。今日は「能率新報」と云って、失礼ながらたった四頁の引札がわりの、ちらしのような雑誌、神田の阿部商店という「名宛印刷器」製造元の機関紙であるが、その中で次のような一文を発見した。
[#ここから1字下げ]
国民皆農私説
私は「国民総耕作」と言つたことがある。池田林儀が独乙《ドイツ》留学から帰つて「優生運動」といふのをやり出した時、その雑誌に書いたのである。十五年もまへだ。
国民皆兵である如く、吾々《われわれ》は皆農でなくてはならぬといふのである。兵役に服すると同様に、一生のうちの一二年間、農業に従事して、その年中の国民の主食物を収穫するのである。
この方法を繰返してゆけば、日本人は、皆自ら耕した所の米を生涯たべる権利と余裕とを持つことができるのである。
青年の労働国家奉仕も、この方法でできる。現在の農家ではできぬ治水、開墾などもできる。
日本中の田畑を耕やすのに、何人入用かは計算できる。その人数を国民のうちから年々徴農するのである。
現在の専門農夫は、指導員、准尉、部隊長であつてよろしい。そのうちにだんだん、整理されていく。
今次の応召家族の間には、はき立てた秋蚕《しうさん》を棄てた家もあつた。秋の穫入《とりい》れを老母と、産後の病妻とに託さねばならなかつた人もあつた。
吾々は米と麦とをたべて、日本の地の上に生活するのである。その主食物を各自の共力で収穫することは何より愉快である。
在郷軍人が、現役兵の話を聞いて昔を偲《しの》ぶごとくに、吾々は、毎朝米を食ふごとに、昔の服農を思ひ出すことができる。
農は百業の基《もとゐ》である。吾等は地を離れて生活できない。
土に親しむことは青年修養の一つでもある。大自然の恩恵とその暴威とを知ることでもある。
常に日を拝む百姓では駄目である。日照、霖雨《りんう》、風害には、これと戦つて勝つ機械化した農でなければならぬ。
それには、国民を総動員したる所のブレーントラストでなければならぬ。
実例は皇軍である。皇軍は人類平和のために戦つてゐる。常に備へられてある。
皆農は大自然と戦ふのである。大自然をして主食物を作らしめるのである。これも常に備へられてあるべきだ。
今日の農業の如く、志願主義――志望主義では面白くない。
[#ここで字下げ終わり]
百姓弥之助も以前からこれと同様の事を考えて居た。
いつかこれを最も組織的に「徴農論」という一書を書いて見たいと思って居たのである。弥之助の考うる所では、世界の本当の平和というものは皆農基本から出直さなければ到底実現されるものではない。国民に徴兵制度を布《し》くように、農はただ国民だけではない、広く人類一般にこれを施行する事に依って初めて人類が生活の真正の安定心を得る事が出来、国際的摩擦というものが、そこから緩和もされ解消もされるのである。
即ち人間の経済生活を貿易本位から生産本位に引き直すのである。そうして生産本位を農業に限定するのである。この主義は今迄の経済学と生活法則とを根本から革新する最も徹底した着実の方案で、戦争の絶滅、国際関係の破局を救う可《べ》き最後の最善の断案だと弥之助は信じて居る。それは人類を原始生活に押し戻すという消極的の夢想ではなく、最も原始的根本的であると共に、あらゆるリベラリズムも、ソシアリズムも皆卒業した後の断案であると、弥之助は信じて居る。処がこれと略々《ほぼ》同意見をこういう思いがけない、失礼ながらペラペラ雑誌の紙面で発見しようとは案外であった、弥之助は取りあえずその雑誌社へ向けて次のような葉書を書いた。
[#ここから2字下げ]
貴店益々御清栄奉賀候、略儀ながら取りあえず葉書を以て申上候儀は貴店御発行の能率新報最近号のうち「国民皆農私説」は非常なる御卓見と存じ、日頃小生も御同様問題に就き思考致候折から右御一文を何卒小生著作中へ転載の事御許容下され度御願申上候 早々不備(昭和十三年三月○日)
[#ここで字下げ終わり]
程なく筆者阿部彰氏から鄭寧な快諾の御返事を受けた。
二十九
百姓弥之助の植民地では四頭の豚を飼っている。
豚の飼養は農家副業としては、先ず収入になる部に属し、此処の案を立てた人は、大いに豚を飼う方針で、菊芋を盛んに植えたものである、菊芋という奴はたしかに豚の飼料には宜《よろ》しい、第一その繁殖力が盛んで、萌《も》え出してからは、苅《か》っても苅ってもあとからあとから成長する、併し、良畑をつぶしてこれを多量に植えることは考えものである、不用の空地や、地境等に植えて置くと宜しい。
コロと称する二貫目位の子豚を買い入れて来て、これを半年以上飼養して二三十貫にして売り出すのであるが、昨今のつぶしは一貫目一円五六十銭から九十銭程度である。飼料や手当等を数えたら、そう大して利益とてはあるまいけれど、肥料の収穫が大きいし、また専門的に百頭千頭と飼養すれば相当な事業になる。つぶしに売ることをしないで別に種とりをやり、子を産ませると、その方が利益になる、ここの本村では全国的には豚の飼養が優秀なものだそうであって他府県へも輸出されるとの事だ。
ここから三里離れた飛行場で有名な立川には岩崎家の子安養豚所がある、これは飛行場よりは寧《むし》ろ草分《くさわけ》なのであるが、さすがに岩崎家のものだけに全国一とか東洋一とかいうもので、ここには西洋から、一頭何千円もする種類の種豚が沢山に集められてある、弥之助も一度これを参観したことがある、所では快《こころよ》く場内を見せて呉れたが、ここの種豚の合格品は非常に高価で売買されるが、その不合格品でさえ一頭数十円で希望者に応じきれない、普通この辺の農家でたちのいいのでも豚コロは五円内外に過ぎないが、岩崎のは不合格品で、四十円もすることになっている。
豚という奴は食う為に生きていて、食われる為に死んで行くように出来ている。廃物でも腐敗物でもこれでイヤと云うことを云わない、フーフー吹いて貪《むさぼ》り食う有様は寧ろ痛快と云いたい位である、この豚でさえ、仕つけると相当の礼儀作法は覚える。
子馬も一頭奥州から買入れて飼養したけれど、手数が煩わしいので売り払ってしまった。
犬は一頭いる、凡犬だけれども、よく吠えるので用心にはなる。
なお、この辺では狐を飼っている処も、狸を飼っている処もある、養魚池もある、養蚕は全国的にも歴史を持つ地方である。いずれ、それ等の副業、自分がやらないまでも調査研究はして見たいつもりでいる。
鶏は白色レグホン種を十羽飼養している、三カ月ものを一羽一円ずつで仕入れて五カ月目から産卵をはじめた、良卵を相当に産む、多い時は一日七箇、少ない時は三箇位の産卵、産まない日は無論一つも産まないのである。すべて市場へ出す卵は幼鶏をブローカーから買求めて飼養す
前へ
次へ
全12ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング