も異様なセンセーションを以て少年の頭にもひびいて来た。
「こんだ、汽車というものがいよいよこっちへ引かれて来るとよ、汽車というものは恐ろしく速いもので電信柱と電信柱の間を目《ま》ばたきをする間に通ってしまうとよ、一丁位先きへ来てもソレ! という間に逃げてしまわなければ轢《ひ》き殺されるから、何でも線路へ寄ってはいけねえぞ」
といってあいいましめて恐れたものだ。後でいよいよ汽車が通った処を見ると、予想程速いものではない、ということは分ったが、少年時代には汽車の速さを魔法的に考えて居たものだ。しかしこれは少年の誇張された恐怖心から起った想像説ではなく、少年の恐怖心を誇張的に刺戟して列車の危険区域から遠ざからしめようとする工事者の政略的宣伝から出たのではないかと思われる。
 鉄道の開通という事は、単に少年の好奇心を刺戟したのみではない、地方一般の人心を聳《そび》えしめるものが少くはなかった。鉄道という余計なものが引っぱられて来る為に、都会の生意気な風が吹いて来るから用心しろの、汽車が出来た為に村の富はずんずん東京へ持って行かれてしまうから、ああいうものへは成るべく近づかない方がいい、という様な意向は大人の頭にも根強い勢力を占めていて、それが為にわざわざ停車場を敬遠してあとで後悔するという様な時代であった。
 自転車は右のような次第であるし、人力車は村に一台か二台あるか無し、お医者さんでもなければこれに乗る者はなかった。流石《さすが》に駕籠《かご》は地を払ってしまったけれども、それでもどうかすると病人などが乗せられて行くのを見た事がある。

       二十二

 百姓弥之助は、ある日の事、梅を見ようと思って、多摩川の向う岸を歩き、ふと、この地に閑山《かんざん》先生が隠棲していることを思い出して、その廬《いおり》を叩いて見る気になった。
 閑山先生というのは、この地方から出た老詩人で、漢詩の造詣がなかなか深いので有名な人であった。
「閑山先生のお宅は何処ですか」
と行く行く村人にたずねると、
「あゝ閑山の家ですか、閑山の家なら、これをこう行ってこう曲って――」
と教える。
 それから暫らく行って、またたずねると、
「あゝ閑山の処は――」
と云っている。
「あれ/\、あすこへ行くのが、あれが閑山だあよ」
と村の子供が指して教えるのはいいが、何処へ行っても、閑山閑山と呼び捨てで、子供までがこの体《てい》であったから、百姓弥之助は変な気持がした。
 程なく、たずね当てて、久しぶりでほとんど半日をその庵で快談に耽《ふけ》ったが、その話のついでに右の呼び捨ての不審をただすと、閑山先生、苦笑いをしながら斯う云った。
「あれは困りものです、そもそもこの村のアクの抜けない先輩共がいけないのです、拙者の名が多少世間に知られているのを、自分の家族か何かのように心得るのはまあいいとして、おれは斯ういう世間に通った名前も、呼び捨てに出来るのだという、卑しい夜郎自大の見えから、そう呼ばなくてもいい場合に、閑山閑山と云っては鼻にかけるというわけで、親しみから来ているのではない、一種のアクの抜けない田舎者根性から出ているのです、そういうやからは拙者の面前では、話も出来ないのですが、全く無邪気な農民と子供等があの通り、それでいいものだと心得て、呼び捨てにしている、中には拙者の前で臆面も無く閑山が閑山がと呼びかけて済ましているのがある、あまり図々しさが徹底しているから、よく考えて見ると、『カンサン』サンという字がつくから、それでもう敬称は支払い済みだと心得ているらしい、勘さんとか助さんとかいう意味で用いているらしい、これ等は全く無智無邪気でおかしいが、こういう風儀をはやらせた、村の先輩格のアクの抜けない半可通がよろしくない」
と閑山先生が、その来歴を話した。
 百姓弥之助は、それを聞いて、成程と思った、そうして、その日の帰りがけに、その村の小学校をたずねると、丁度校長さんがいたから、弥之助は立止まって、少々立話をした末に、それとなく斯ういう事を忠告した。
「長者を尊敬する風習はよく児童等に教えて置きたいものです、昔、江州《ごうしゅう》の小川村へ行くと、藤樹先生をたずねて来る他郷の人の為に、村人は、わざわざ衣服を改めて案内したそうですが、郷党にはその位の気風があって宜《よろ》しいです、閑山先生は聞えたる老詩人です、それを子供までがああして呼捨てにしている、無邪気といえば無邪気だが、他郷の人が聞くと非常に聞き苦しいです、あれは学校から一応注意してやっていただきたいものです」
 校長さんは、よくその忠告を諒として、相当教化につとめることを答えたが、その後、たずねて行って見ると著しく、その無作法が無くなっていた。

       二十三

 この村に電燈が点《つ》いたのはいつ頃の事であったか知らん、何でも弥之助が東京に出た時分で、明治三十年代の事であったと思う。農家へ電燈が点いてその下で藁打《わらう》ち草履《ぞうり》こしらえをやって居ると云って田舎も中々贅沢になったと笑ったものだが、東京の市中に於ても電燈というものが早くから点けられてはいたけれども、最初のうちはそれは非常に料金が高く各家各室へつけるという訳には行かなかった。弥之助も青年苦学時代は大てい石油ラムプですましたもので、普通学生の下宿も各室電燈を引くという事は思いもよらず皆台ラムプを机の上に置いて勉強したもので、当時書生の引越と云えば人力車の上に腰を懸け、股倉の間へ机を割り込んで片手に洋燈《ラムプ》を持てばそれで万事が済んだものだ。それが急に料金が引き下げられ、一般に盛んに使用される様になったのは弥之助が二十二三歳の頃でもあったろうか、電燈値下げの殊勲者としては実業の世界社だの都新聞だのというものが先陣を切ったもので、その結果さすがに頑強を極めて居た東電(佐竹という人が社長で政友会の弗箱《ドルばこ》であったとの説もある)も時勢に抗し難くとうとう大値下を為すの已《や》むを得ざるに至った、その時である、東京に居た弥之助は町のお祭を歩いて、それまでは提灯《ちょうちん》であった馬鹿囃子《ばかばやし》の屋台に電燈が点けられたのを見て劃期的に感心した、
「お祭りの馬鹿ばやしの屋台にまで電燈がついた」
 弟などをつれて祭礼見物に出かけてはひたすら驚異したものだ。それからどこの家でも各室皆一燈を備える様な勢いをもって今日に及んで居る。
 日本の電力及び電燈は世界で一二を争う威勢だと云って誇るものもあるが、それは資本力のせいばかりではない、天然の水力に恵まれている余恵である、併しそれでも都会と村落との比例を考えて見ると恐ろしい開きがあるのを、この植民地に落ち着いて初めて弥之助は感得する事が出来た。
 こっちへ来て見ると田舎《いなか》の電燈料が東京市内にくらべて遙かに高い、高いのはいいとしても光力が甚だ弱くてけち[#「けち」に傍点]である。それから朝夕の点滅の時が如何にもしみったれという感じを持たせずには置かない、昼夜線というのは頼んでも中々引いて呉れない、そして朝は早朝からぷっつりと配電を止めてしまう、早朝飯をおえてこれからだという時にぷっつりと消えてしまう、仕方が無いからロウソクでつぎ足をして、やりかけて仕事を終るという有様だ。夕方はいよいよ暗くならないと点かない、今これを書いて居る三月上旬は、朝は先ず五時から六時の間頃ぱったりと消えてしまう。夕方は五時過でなければ点燈しない。弥之助の様に早朝を書きものに費すものにとってこの時間でぱったり止められてしまうのは実際腹が立ってたまらぬ、それから午後の五時なども曇天雨天の日などは室内で文字を料理する事などは出来はしない。電燈の無かった時代を考えて見ろ、贅沢は云えたものでないと云われればそれまでだが、すでに電燈が有って人を信用させる事になっている以上は如何してもう一息の利便が計れないのか。
 それから田舎の電燈料というものが比例を外《はず》れて高いことは、即今都会に比較した精密な計算は持たないけれど、それは馬鹿げた高価である、そうして同じ会社の配電でありながら町村によって料金がまちまちなのである、あながち土地の便不便によるのではない、何の標準でそう甲乙があるのか素人《しろうと》には更にわからない。
 もう一つは営業ぶりの横暴と不親切が田舎に住んで見るとそれも露骨に解る、たとえば電力や点燈の申込みをしても容易な事では取りかからないが、何か然るべく土地の面《かお》ぶれを通すと存外簡単に運ぶ、彼等と会社側の間に、黙契があると見るより外はない、そういう顔ぶれを通して注文すると事が早く運ぶ、そうでないと中々運ばないのみならず、そういう連中と結托して弱い者いじめをしたり或はけむったい人々に対して示威手段を試ろむる事さえある、何かの端《はずみ》で土地の政党関係などに触れるとこの電燈会社が職工工夫に命令して無茶に電柱を立てたり横柄な測定をしたりしておびやかす様な事をする。正直な地方農民はそれにおびやかされて泣き寝入りになる例も随分ある、それから電燈会社の社員となると彼等は洋服を着て居るからお役人様だと心得て居るらしく、万事に生意気で横柄で営利会社の社員とは思われない。
 処によると村の青年団に依托して電燈料の集金をさせる様にして居るが、これも一つの手でこれに依って青年団の歓心を買って居る、つまり集金高に依って青年団の方へいくらかのコンミッションを出す、そうなると青年団も料金の高下よりは集金高の増減に関心を持つという段取りになる。
 百姓弥之助は電燈会社の沿革などはよく知らないが、目下はこの地方は東電の独専になって居る、そうしてこの独占会社が従来政党とどういう腐れ縁があり、その台所や地盤関係にどんな魔力がひそんで居るかという事は一向知らないけれど、地方のそれぞれの首振りや小財閥とこの独占会社とがガッチリ結んで居る事は直接にひたひたと体験が出来るのである。これは一旦都会生活に慣らされた者でないと充分に解るまい、田舎の者は電燈会社はそういうものだと心得ている、同じ電燈会社でも都会に於てはそれ程譲歩しながら田舎に於ては斯うもきつい、無知な農民はそれに対して主張する事を知らない、電力が国営になったからとてそう急に豊富低廉なる電力を人民が享受し得られるものか如何か、よしそれが享受し得られる計算になっているとしても今日は非常時であって、文句がつけられまいけれど、こういう独占会社に持たせて置いて、いろいろの地方閥とからみ合うに任せて置くよりは国家の手に任せて置く方が名分共に正しいと云う事を百姓弥之助は考えている。
 それはそれとして百姓弥之助の少年時代つまり小学校卒業の頃十四歳の頃までは電気というものに恵まれない生活であった。極く幼年時代はあんどんの時代であって、それから石油|洋燈《ラムプ》の時代に移った、石油洋燈にも大小数々の形はあったが、大体釣ラムプと台ラムプの二つに分れている、夕飯などは大ていこの釣洋燈の下で一家うち揃って膳に向ったものである。ついでに食膳の事をいうと一つの大きな卓を囲んで一家丸くなって食事を取るというのでなく、皆それぞれ膳箱を一つ持たせられて自分の食器は総《すべ》てその中へ入れて置いてそれをめいめい持ち出して釣ラムプの下に集って食事をしたものである、台ラムプの方は主として机の前に置いて事務勉学等に使用した。石油ラムプというものは今日では東京の市中をさがしても殆ど一つもない、数年前弥之助は植民地へ持ち帰ろうと思って、足を棒にして東京中をさがし廻ったけれども、とうとう何所《どこ》にも見出す事が出来なかった、最後に銀座の或る大きな洋品店で聞いて見ると一つ有った筈だと棚の方をさんざんさがして呉れたが、とうとう発見が出来なかった。そこである園芸種物会社へ行って園芸用の安全ラムプを買い求めてやっと要用を満たしたが、いずくんぞ知らん、この植民地に近い町村の荒物屋では今日でもいくらも石油ラムプを売って居るのである。現に電燈会社の挙動が癪《しゃく》にさわるから弥之助の植民地では電燈の数を殖やさない
前へ 次へ
全12ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング