からまた健康を取り直し今では二十貫の体量になっているが、いずれにしても一度きずついた体であるから自重する念が深い、そこで冬はなるべく温い土地で暮したいと思うがまだ別荘を持つまでに至らない、熱海と云う所は昔から好きな所であった、今から三十年ばかり前に逗留保養したことまである温泉だが、大震災以後土地の気分がこわれた上に鉄道が開通し自動車の世の中になってからは町全体が昔の様な潤《うるお》いが欠けてしまった感じがする。
 しかし避寒を兼ねての東京へ一番近い養生地と云えばこの地に越した所はないので弥之助は冬はしばしば此処《ここ》へやって来る。
 今日もまた海岸の中流処の宿屋に陣取って二日ばかり保養した、海岸は波の音がよもすがらやかましいけれど、此所《ここ》には「河原の湯」と云う名湯がある、弥之助はこの湯が好きなので宿の内湯等は二の次にして此所であたたまる事を楽しんで居た、河原の湯は昔とは違って改造され、一浴五銭ずつ取って大きな共同風呂になって居る、その熱度と新鮮味とが他の何所の湯よりも肌に爽《さわやか》である。
 弥之助は此所で二日ばかり保養した後、東京へ取って返した。枝付きの蜜柑《みかん》を買い込んで土産《みやげ》とし、三等客として空席の一つを占めたが向合いに黒いとんび外套《がいとう》を着た相当品格のあるお爺《じい》さんが一人居た、汽車が小田原を過ぎた時分にこのお爺さんは首を伸ばして、
「小田原城はどの辺になりますか」
と弥之助に向って尋ねた。
 窓の左の方をながめた弥之助が、
「あの黒い森のあたりが一帯にそうです」
 老人がそれを眺めて、
「仲々広いものですな」
 弥之助がまたそれに調子を合せて、
「仲々広いです、しかし北条氏時代の小田原城はまだまだ何倍も広かったでしょう、なんしろあの中へ北条氏が関八州の強者《つわもの》八万騎を入れて八カ月を持ちこたえ、太閤が天下の兵二十万を以てこれを囲んだと云うのですから、徳川氏になってからの小田原城とは規模がちがいましょう」
と弥之助はやや啓蒙的に説明を試みると老人は予想以上に歴史に理解があって次の様に答えた。
「そうです、小田原勢もえらかったが太閤の軍略も素晴らしい、太閤と云う人は戦《いくさ》も上手だったが、軍略にかけてはさすがに日本一でした、小田原城にしてもああして大軍は動かしたけれども殆ど兵は殺していないです、無理な力攻めは決してしない人でした、或る点まで戦をしてそれからは軍略で大勢を制して大局の勝を取ると云う事にかけては全く古今独歩の英雄でしたねえ」
 弥之助はこの老人の理解に尊敬の念を起して彼の対話もまたはずんで来た。
「その通りです、戦をさせたら家康の方に強味があるにしてからが、やっぱり最後にはあれを包容してしまいました、なるべく兵をいためずに大局を制すると云う点はえらいものですよ、あすこが武田でも上杉でも誰でも及ばないところです、天下を取るのは力ずくだけでは駄目です、略でいかなければ」
 老人もまた弥之助の言葉にぴったりと意気が合うので、
「ところが欧羅巴《ヨーロッパ》の大戦争をはじめ近頃の戦争と云うものは……」
 老人は近代戦争の兵器と人間との全面的衝突の恐るべき事を説いて「戦争に軍略と云うものがなくなった」と云う事を非道《ひど》く慨歎して居た。
 それから二人の会話が何時しか西郷と勝の江戸城ゆずり渡しの事に及んで来た。
 考えて見ると、西郷も勝も偉かったものだ、維新の開幕は必ずしも二人だけがうった大芝居ではない、内外の情勢殊に英国公使あたりのにらみも大分きいて居たと云う事だが、然し何と云ってもあの場は二人の舞台である、もしかりにあの二人の大芝居がうちきれないで江戸の城下が火になると云う事になれば、東北の強みはぐんと増して来る、それから所在佐幕に同情を持つ諸藩の向背ががらりと変って来る、日本がまた元亀、天正以前の状態になる、幸に新政府が成立したからと云って、その政治の奔命に疲らされて革新の精力などは消磨されてしまう、そこへ外国の勢力が割込むと云う様な事になった日には維新の事業どころではない、国そのものが半属国のような運命に落込まないとは限らない、西郷と勝の二人ばかりが千両役者ではない、明治の維新と云うものは有ゆる方面の力によって達成されたには相違ないけれども、人物が、少くともあの場合この二人の立役者が人命を救い国の運命を救った、エライ人物が出ると云うことは或意味では国の不祥と云えるかも知れない、然し人物が無い為に国を誤るの不祥はそれより以上の不幸と云わなければならない。ドイツにヒットラーが出たりイタリーにムッソリーニが出たりして乱れた国家を統制しこれを活躍せしむる外観はすばらしいが、ああ云う人物を生み、ああまでしなければ立ち行かなくしたヨーロッパ大戦以来の惨憺たる不幸を見れば、い
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