たずらに英雄待望ばかりをして居られない、今の日本に西郷隆盛が居ない、支那に勝海舟《かつかいしゅう》が居ない――と云う事が二つの国民の為に幸か不幸か。
 と云う様な事を弥之助は老人と共に語りあった、弥之助だけがそう云う考えを説いて聞かせたのではない、この老人も立派に弥之助とバツを合せるだけの見識を持って居た。
 老人は品川で山の手線に乗り替えて新宿の方へ別れた、弥之助は東京駅まで乗った。

       八

 それから植民地に帰って数日して弥之助はまた東京へ出かけて来た。
 それは午後の四時頃であった、中央線の電車は満員|鮨詰《すしづめ》であってその大部分は学生であった。この頃はたまにしか電車に乗る事のない弥之助はこの箱の中に積み込まれて見ると、
「人が多いなあ」と云う感じにせまられる、人間が多過ぎるなあ、一たいこんなに多くの人間が必要なのかしら――とやけの様に考えさせられる事がある。殊に東京市内から中央沿線に多くの学校が移されたところから、或る時刻になるとここの列車が学生であふれる。ここの沿線ばかりではない、弥之助の植民地の方へ行く私設の沿線でさえも学生であふれかえる。日本には人間の数も多いが学生の数も多いなあとあきれ返るばかりである。
 弥之助の植民地の本村などでも昔は、小学校以上の学校へ通うものが一村のうちで一人か二人位のものであった。まして女の子に至っては尋常科四年生を卒業すれば充分だと云われたものであるが、今はもうちょっとしたところの農家でも女学校を出さなければ嫁入資格に欠けると云う様な事になっている。
 どちらから見ても日本は人間がどしどしふえて行く、教育がずんずんはびこって行く、建築でも道路でもどしどし強化拡張されて行く、非常時の、農村疲弊のと云うけれども、そう云う都会中心の景気を表面から見ただけでは、すばらしい発展である。
 そのうちに席が一つ空いたから弥之助は其処《そこ》へ割り込むと、ひょっこりその前へ現われた背広服の青年が、うやうやしくあいさつした。
「先生どちらへお出でですか」
「やあ小山君か」
と云うのをきっかけに二人はそこで立話をした、この青年は去年上野の美術学校を出た秀才でかっぷくのいい形をして居た。
「どうです、君なんぞは兵隊の方は」
と尋ねると、青年は答えた。
「覚悟はして居ますけれどもまだ召集がありません、私達の同窓にはすでに召集されて出征した人もあり戦死者もあります、美術出身でもう十五名は召集されて居りますが、その内五名は戦死と云うことが解りました。僕の親友であったSと云う青年が、校中の人望家でもあったし人物も立派で気象も秀《すぐ》れて居て柔道も三段でありましたが、上海でとうとうやられてしまいました、しかもその男は同郷の資産家の一ツブ種です、僕の様な次男坊でどうでもいい人間は無事健在でああ云う人間がやられるのだから感慨に堪えません」
と小山青年が云った。弥之助はそれを聞いて、
「うーん」
と口を結んだ、いま、日本の内地へは爆弾一つ落っこちて来るのではない、実感的に何等驚破される非常時現象が眼の前に展開されている訳ではない、こうして平和そのものの秋の夕ぐれの武蔵野の中を走る電車は明朗な青年たちで張り切って居る、然し彼等とても全く米の価を知らずに、ただ食いただ肥って居るだけではない、美校出身だけでも十五、六、七名の出征者のうちに死者五名と云う事であれば少なくとも三分の一が死んで居るのである。
 肉弾、肉弾、全国を通じての肉弾の貴重すべき犠牲は外で戦われて居るから内なる人の日本人の実感にこたえる事が甚だすくないのではないか。日本現在を斯くも安らかにしているのは、皆、外に戦っている肉弾のお蔭である。

       九

 弥之助は植民地から東京へ往復するに国産小型自動車を用いて居る。
 自動車では相当に苦労したものである、あえて贅沢《ぜいたく》のために自動車を欲しがるものではない、自分の健康上と業務の上との両方面から経済的にこれを利用し度いとの希望の為に、二台まで中古自動車を買ったが、皆失敗した。
 その一つはダッチブラザーの古物であったがこれは旧式ではあるが中々機械の質がよく少々利用して東海道、東山道など突破した事もあるが、長く続かなかった、部分品や修繕に中々金がかかるのと正式運転手を一人やとい入れるのとではかなりの大負担になる、そこで世話をした自動車屋が、営業上に籍を置いて呉れて必要の時だけ乗りまわす事にしたが、万事につけて出費が多くてものにならなかった。
 そのうちに一人の青年が来て私立大学に通う学資を得る為に運転手をし度《た》い、幸い、自分は免許状を持って居ると云う事を申出て来たからその話に乗り込んで中古のシボレー一台を買い込み、営業用に登録し必要の時はこちらが乗ると云う事に約束をきめてか
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