ずるところあって、万事農から出直さなければならないという観念の下に今これだけの地所と別に一町歩あまりの山林とを基礎として小農業の経営を試みてから、これでまだ二年目である。
弥之助はガラス窓を閉めて三階から降りると、もうあたりは黄昏《たそがれ》の色が流れていた。それから本館を出て赤塗の古風な門をくぐって、農舎の方へ行って見ると、そこで自家用の木炭製造の炭竈《すみがま》が調子よく煙を吐いていた。
やがて冬が来る、武蔵野の冬の空《から》ッ風は寒い。殊にここは植民地で吹きさらしだ。家にいる青年達にも防寒の用意をさせなければならない、そもそもこの植民地同様のところから出立して、一つ出来るだけ自給自足で行って見ての上の話である。自給自足が最後のものではないけれども、自給自足から出立というのが彼のこの植民地の要《かなめ》となっている。
そこで、燃料の自給ということから木炭の自家用供給を試みた、試作の順序は良好で、土落ちの加減も煙吸きの調子も甚だ悪くない。だが、かんじんの中味の炭の出来栄《できば》えが、どういうものかそれは二三日たって見ないとわからない。
六
普通木炭を焼くには一定の炭竈を築いてする一定の方法がある、が、弥之助がはじめたのはそういう本格的のやり方でなく、軽便実用を主とした即成式のものであった。
この春、弥之助はその地方の農林学校を訪れて教師が校庭で速成炭焼を試験しているのを見て、仔細にその仕方を尋ねて来た、というのはこの地方では不相変《あいかわらず》囲炉裡《いろり》で焚火《たきび》をやっているが、それは燃料の経済からいっても、住居の構造と衛生からいっても損するところが多いものだ、それに薪《まき》の材料も年々不足して来るし、そうかといって、農家の力では木炭を買って使いきれない。
ところがここに桑の木というものがある。養蚕《ようさん》の事が近来、めっきり衰えて桑園を作畑に復旧する数も少なくない。新百姓としての弥之助は、附近の桑園を買い取って、これを耕地にする為に何千本もの桑の株を掘り返して持っている、この桑の株は大抵七八年の歳月を経ているが、枝を刈り取り刈り取りするものだから、丈《た》けは僅か二三尺に過ぎない、が年功は相当に経ているだけに、薪にすると火持がよい、併し、これを炭に焼けば一層結構なものになると、かねがねそれを心掛けていたが、最近の農業雑誌を見ると、その方法が書いてある、よって、塾の青年に、その事を云いつけて置いたところへ、農林の生徒がやって来て、昨日、それを実行した。
先ず、幅三尺、長さ二間ばかりの薬研式の浅い穴を掘って、それに藁《わら》を敷き込み、その上へ上へと桑材を山盛りにして、隙間へは藁を詰め込んで上面一帯に土を盛りかぶせ、一方の口から火を焚きつけて、団扇《うちわ》やとうみで盛んに煽《あお》った、斯くて一昼夜ほどすると、一方の風入口が火を吹き出した時分に、それを塞いで蒸す、という段取りである。
どうやら調子よく行っている、この分なら相当の炭が得られそうな気持がする、消炭に毛が生えた程度でも我慢する、相当立派なものが出来れば、この冬は炭を買わないで間に合う、併せて、この方法を附近の農家に流行《はや》らせてもいい。
それを見届けた上で弥之助は、豚舎と鶏舎を見廻った。豚は四頭飼っている、鶏は十羽いる、豚の発育は皆上等と云って宜《よろ》しい、食物の食いっぷりが極めて良《よろ》しい、豚というやつは食う事の為にだけ生きているとしか思われない、食う事の為に生きて、食われる事の為に死ぬ。彼に於ては生も死も本望かも知れない、最初に経営を任せたある坊さんが施設した豚飼養の計画は農家経済として間違った着眼ではない、収益率の極めて乏しい農家の副業として豚の飼養は相当有利なものである。この頃聞くと、つぶし豚に売って、一貫目一円九十五銭――までになったそうだ、約二円である、で、一頭の豚をこの辺では二十貫程度にして売り出す、少し丹精すれば三十貫にはなるから、五頭も飼うと有力な一家経済の足しにはなる。
鶏もこの頃漸く卵を産みはじめた。少なくも資本だけは取り上げなければならない、と百姓弥之助は考えた、百姓弥之助の農業はまだ投資時代だが、やり出した以上はお道楽であってはならない、美的百姓だけで甘んじていてはならない、早く独立自給だけにして見なければ冥利《みょうり》にそむくと弥之助は考えている。
七
弥之助は、健康の転換の為に熱海の温泉へ出掛けた、弥之助の少年時代は仲々健康児の方で、手首等は自分の指で握りきれない太さを持って居たが、東京へ出て苦学と云う事をしたり家庭を背負って生活戦線に疲れたりしたものだから、甚だしく健康をそこねて二十歳前後一時は絶望とまで思われたのに、努力によって三十歳の後半
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