て、やりかけて仕事を終るという有様だ。夕方はいよいよ暗くならないと点かない、今これを書いて居る三月上旬は、朝は先ず五時から六時の間頃ぱったりと消えてしまう。夕方は五時過でなければ点燈しない。弥之助の様に早朝を書きものに費すものにとってこの時間でぱったり止められてしまうのは実際腹が立ってたまらぬ、それから午後の五時なども曇天雨天の日などは室内で文字を料理する事などは出来はしない。電燈の無かった時代を考えて見ろ、贅沢は云えたものでないと云われればそれまでだが、すでに電燈が有って人を信用させる事になっている以上は如何してもう一息の利便が計れないのか。
それから田舎の電燈料というものが比例を外《はず》れて高いことは、即今都会に比較した精密な計算は持たないけれど、それは馬鹿げた高価である、そうして同じ会社の配電でありながら町村によって料金がまちまちなのである、あながち土地の便不便によるのではない、何の標準でそう甲乙があるのか素人《しろうと》には更にわからない。
もう一つは営業ぶりの横暴と不親切が田舎に住んで見るとそれも露骨に解る、たとえば電力や点燈の申込みをしても容易な事では取りかからないが、何か然るべく土地の面《かお》ぶれを通すと存外簡単に運ぶ、彼等と会社側の間に、黙契があると見るより外はない、そういう顔ぶれを通して注文すると事が早く運ぶ、そうでないと中々運ばないのみならず、そういう連中と結托して弱い者いじめをしたり或はけむったい人々に対して示威手段を試ろむる事さえある、何かの端《はずみ》で土地の政党関係などに触れるとこの電燈会社が職工工夫に命令して無茶に電柱を立てたり横柄な測定をしたりしておびやかす様な事をする。正直な地方農民はそれにおびやかされて泣き寝入りになる例も随分ある、それから電燈会社の社員となると彼等は洋服を着て居るからお役人様だと心得て居るらしく、万事に生意気で横柄で営利会社の社員とは思われない。
処によると村の青年団に依托して電燈料の集金をさせる様にして居るが、これも一つの手でこれに依って青年団の歓心を買って居る、つまり集金高に依って青年団の方へいくらかのコンミッションを出す、そうなると青年団も料金の高下よりは集金高の増減に関心を持つという段取りになる。
百姓弥之助は電燈会社の沿革などはよく知らないが、目下はこの地方は東電の独専になって居る、そうして
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