つ頃の事であったか知らん、何でも弥之助が東京に出た時分で、明治三十年代の事であったと思う。農家へ電燈が点いてその下で藁打《わらう》ち草履《ぞうり》こしらえをやって居ると云って田舎も中々贅沢になったと笑ったものだが、東京の市中に於ても電燈というものが早くから点けられてはいたけれども、最初のうちはそれは非常に料金が高く各家各室へつけるという訳には行かなかった。弥之助も青年苦学時代は大てい石油ラムプですましたもので、普通学生の下宿も各室電燈を引くという事は思いもよらず皆台ラムプを机の上に置いて勉強したもので、当時書生の引越と云えば人力車の上に腰を懸け、股倉の間へ机を割り込んで片手に洋燈《ラムプ》を持てばそれで万事が済んだものだ。それが急に料金が引き下げられ、一般に盛んに使用される様になったのは弥之助が二十二三歳の頃でもあったろうか、電燈値下げの殊勲者としては実業の世界社だの都新聞だのというものが先陣を切ったもので、その結果さすがに頑強を極めて居た東電(佐竹という人が社長で政友会の弗箱《ドルばこ》であったとの説もある)も時勢に抗し難くとうとう大値下を為すの已《や》むを得ざるに至った、その時である、東京に居た弥之助は町のお祭を歩いて、それまでは提灯《ちょうちん》であった馬鹿囃子《ばかばやし》の屋台に電燈が点けられたのを見て劃期的に感心した、
「お祭りの馬鹿ばやしの屋台にまで電燈がついた」
弟などをつれて祭礼見物に出かけてはひたすら驚異したものだ。それからどこの家でも各室皆一燈を備える様な勢いをもって今日に及んで居る。
日本の電力及び電燈は世界で一二を争う威勢だと云って誇るものもあるが、それは資本力のせいばかりではない、天然の水力に恵まれている余恵である、併しそれでも都会と村落との比例を考えて見ると恐ろしい開きがあるのを、この植民地に落ち着いて初めて弥之助は感得する事が出来た。
こっちへ来て見ると田舎《いなか》の電燈料が東京市内にくらべて遙かに高い、高いのはいいとしても光力が甚だ弱くてけち[#「けち」に傍点]である。それから朝夕の点滅の時が如何にもしみったれという感じを持たせずには置かない、昼夜線というのは頼んでも中々引いて呉れない、そして朝は早朝からぷっつりと配電を止めてしまう、早朝飯をおえてこれからだという時にぷっつりと消えてしまう、仕方が無いからロウソクでつぎ足をし
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