この独占会社が従来政党とどういう腐れ縁があり、その台所や地盤関係にどんな魔力がひそんで居るかという事は一向知らないけれど、地方のそれぞれの首振りや小財閥とこの独占会社とがガッチリ結んで居る事は直接にひたひたと体験が出来るのである。これは一旦都会生活に慣らされた者でないと充分に解るまい、田舎の者は電燈会社はそういうものだと心得ている、同じ電燈会社でも都会に於てはそれ程譲歩しながら田舎に於ては斯うもきつい、無知な農民はそれに対して主張する事を知らない、電力が国営になったからとてそう急に豊富低廉なる電力を人民が享受し得られるものか如何か、よしそれが享受し得られる計算になっているとしても今日は非常時であって、文句がつけられまいけれど、こういう独占会社に持たせて置いて、いろいろの地方閥とからみ合うに任せて置くよりは国家の手に任せて置く方が名分共に正しいと云う事を百姓弥之助は考えている。
それはそれとして百姓弥之助の少年時代つまり小学校卒業の頃十四歳の頃までは電気というものに恵まれない生活であった。極く幼年時代はあんどんの時代であって、それから石油|洋燈《ラムプ》の時代に移った、石油洋燈にも大小数々の形はあったが、大体釣ラムプと台ラムプの二つに分れている、夕飯などは大ていこの釣洋燈の下で一家うち揃って膳に向ったものである。ついでに食膳の事をいうと一つの大きな卓を囲んで一家丸くなって食事を取るというのでなく、皆それぞれ膳箱を一つ持たせられて自分の食器は総《すべ》てその中へ入れて置いてそれをめいめい持ち出して釣ラムプの下に集って食事をしたものである、台ラムプの方は主として机の前に置いて事務勉学等に使用した。石油ラムプというものは今日では東京の市中をさがしても殆ど一つもない、数年前弥之助は植民地へ持ち帰ろうと思って、足を棒にして東京中をさがし廻ったけれども、とうとう何所《どこ》にも見出す事が出来なかった、最後に銀座の或る大きな洋品店で聞いて見ると一つ有った筈だと棚の方をさんざんさがして呉れたが、とうとう発見が出来なかった。そこである園芸種物会社へ行って園芸用の安全ラムプを買い求めてやっと要用を満たしたが、いずくんぞ知らん、この植民地に近い町村の荒物屋では今日でもいくらも石油ラムプを売って居るのである。現に電燈会社の挙動が癪《しゃく》にさわるから弥之助の植民地では電燈の数を殖やさない
前へ
次へ
全56ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング