方になって居る。それからそのあたりの水田も弥之助が子供の時代とは打って変って劃一の耕地整理が出来上って居る。以前はこの水田が甚だ不器用な区分で、田圃《たんぼ》としての面白味を充分に持ち、その間を流れる田川の如きも芹《せり》やその他の水草が青々として滾々《こんこん》と水の湧き口などが幾つも臍《へそ》のような面白い窪みをもくもくと湧き上げたものだが、今はそんな趣きはすっかり無くなってきちんとした掘割になってしまった。斯様な耕地整理によって年々若干石の収穫は増したであろうが、どんな造庭師にも出来ない田圃の面白味はすっかり無くなってしまった。上水の水道沿岸に於てもやっぱりその事は云える、江戸以来の玉川上水、日本第一の水道であったところのこの玉川上水は弥之助の少年時代は両岸から昼|猶《なお》暗いところの樹木がかぶさって居たり、危うげな橋が渡されて居たり、掘割ではありながら自然その水路も底の見え透らない深さをもつところもあったり、なだらかな瀬となって流れるところもあったり、そうしてそれ等のものすごい淵《ふち》には幾つかの伝説が附着して居り、或は河童《かっぱ》が棲《す》んで居るとか、小豆洗婆《あずきあらいばば》あが出るとか、こん[#「こん」に傍点]が引き込むとか云う云いつたえがそのままで受入られ、昼間通る弥之助の子供心をもおびえしめたものだが、今はそれがすっかり底を浚《さら》われて、深さもどこまでも平均され、両岸はコンクリートでつき固められ、全く人造掘割の平板な通水路にされてしまっている。この地方の河童と云うのも昔からどこの里にもありそうな御多聞にもれぬ伝説が残って居る、力自慢の或親爺が河童と薪の背負いくらべをしたとか、河童は人を川へ引きずり込んで肛門から手を差入れて臓腑を引き出して食ってしまうとか云う話を断えず聞かされていた、小豆洗婆あと云うのは堂崖《どうばけ》と云うのがあって、夜な夜なその川淵の暗い所でザックザックと小豆を洗い初めると云うので子供の時は夕方になるともうそのあたりは通れなかった。勇敢な男が正体をつき留め様としてそこへ行って見るとザックザックと云う音は足を進めるにつれて遠ざかって、とうとう音だけは絶えず聞えて居て、遂にその正体はつかむ事が出来ないでしまったと云う事だ。それを解釈するものは小豆洗婆あは即ち狸《たぬき》であって、あの小豆を洗う音は狸がその尻尾を水の中に
前へ
次へ
全56ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング