むのであった、このなあーんまいだんぶつの音律にはおのずから一定した節があって決して出鱈目《でたらめ》ではなかった。どうも一寸は真似が出来ないが、あれを遠くで聞いていると、弥之助の幼な心は何となく無常の感じにおそわれて、死出の山路をそろりそろりと人魂《ひとだま》が歩んで行くような気持がさせられた。
 今出征兵を送る一行を見て、弥之助は四十何年も昔の葬式の事が何となしに思い出されて来た。あれとこれとは決して性質を同じゅうするものではないが、ただ、聯想だけがそこへ連なって来た、勇ましい軍歌の声が停車場に近い桑畑の中から聞えて来る。
[#ここから2字下げ]
勝たずば生きて還《かえ》らじと
誓う心の勇ましさ
或は草に伏しかくれ
或は――
[#ここで字下げ終わり]
 それを聞くと、昔のなあーんまいだんぶつ――が流れ込んで、高く登る幾流の旗を見やると、
「生き葬い!」
 斯《こ》ういう気持ちが犇々《ひしひし》として魂を吹いて来た。

       三

 この村でも、最早毎日のように出征兵が送られて、二十人以上にも達している。
 上海《シャンハイ》に於て戦死者が一人、負傷者が一人、出たとの事である、それから、この村の人ではないが先程まで、この村で小学校の教鞭をとっていた青年教師が一人これも上海で戦死したそうだ。
 弥之助がついこの間、この畑道から散歩のついでに村の小学校の庭へ入り込んだ事がある。丁度放課時間で子供達が遊戯をしたり、試作園の中で土いじりをしたりしている中を通り抜けて行こうとすると、教室の廊下の中からちょっき[#「ちょっき」に傍点]姿の若い教師が現われて、なつかしそうに弥之助の傍へ寄って来て、
「百姓先生ではありませんか」
と呼びかけて来た、そこで弥之助も挨拶をすると、その青年教師は弥之助の著書のことから話を切り出して、自分は室町時代の赤松家の後裔《こうえい》の者であるということを名乗って、赤松家の系図などについて立話しながら、要領のある話をしたことを覚えている。
 この頃聞くと、その教師が最早上海戦の犠牲となってこの世に亡き数に入ってしまったとの事である。実に信ぜられないほどあっけない思いがした。
 弥之助はこの日本の国に生れて今日まで三度出征兵を送り迎えの経験を持っている。
 最初の時は明治二十七八年(西暦一八九四)の日清戦争の時で、その時分はまだ弥之助は九歳か十
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