の青竹に旗幟《はたのぼり》の幾流が続々と繰り出されて来る、村から停車場へと行くこの道は、早くも蜿蜒《えんえん》たる行列が曳《ひ》き栄えられて来た。
百姓弥之助は、その光景をじっと見て吾《われ》に返った。
「また、きょうも出征者だな、家の若い者は誰か見送りに出たかな」
と思いながら、立ちつくしていると、聞くとはなしに軍歌の声が耳に流れ込む、そのうちに彼はなんとなしに自分が幼少時代に見慣れたお葬式の行列のことを思い出した。今から四十年ばかり昔の事だから、もうこの村でもああいった葬式のやり方は廃《すた》れてしまっているだろうが、弥之助は思わずその昔の風俗を思い出したのである。
二
この辺の寺は大抵禅宗寺になっている。本村に三つ寺があるが、何れも禅宗で、妙心派と建長寺派とに分れている。弥之助の子供の時分にはこの妙心派のお寺が近い隣地にあったものだからよくお葬式の行列を見たり、また納棺最後まで態々《わざわざ》見届けに行った覚えがある。その時分は火葬ということは無かったから、みんな土葬で棺《ひつぎ》は三尺程高い箱棺で、それに蓮台《れんだい》と天蓋《てんがい》とはお寺に備えつけのものを借りて来て、天蓋には白紙を張り、それに銀紙で卍《まんじ》をきざんで張りつけ、蓮台は白木のままの古びた極くお粗末なものであった、そうして、その棺を担《かつ》ぐのはその庭場庭場の年番の廻持ちでたしか六人位ずつの人足を出していた、穴掘りもそれ等のものがやり、棺を担ぐのもやはりそれ等のものがやったと覚えている。
愈々《いよいよ》坊さんの読経も済んで、その家から棺が繰り出す、前後にはそれ相当の紋付、羽織、袴《はかま》、女は幾代も幾代も相伝の白無垢《しろむく》を借着をしたりなんぞして、それぞれ位牌を持ち線香立を持ち、白木のお膳などを持って棺の前後に附き添うと、その周囲には親類だの庭場中の会葬者だのがぞろぞろとついて行くのであった。それからまだ棺の前後には小さな天蓋だの、竜の頭だの仏の名を書いた旗だのというものもつき添っていた。愈々《いよいよ》この葬列が繰り出すと、同時に棺舁《かんか》きの六人ばかりの口から念仏の声が前後相呼応して高らかに称《とな》え出される。
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なあーんまいだんぶつ
なあーんまいだんぶつ
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この称名に送られて寺から墓地へと進
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