歳であった、それから第二が明治三十七八年(西暦一九〇四)の時で、彼はその時丁度徴兵検査であった。その時分の彼は東京へ出て所謂《いわゆる》苦学ということをしていたが、徴兵検査はこの村へ立帰ってこの地の郡役所で受けた。当時の彼は瘠《や》せこけて体量十一貫位であったが、検査の結果は皮膚脆弱というようなことで、乙種の不合格であったと覚えている、然《しか》し戦争が長びけばどうなるか知れないというような噂さは聞いていたものである。それから以来、彼は軍籍には何等の関係の無い身ではあるが、その都度都度の軍国気分というものは可なり深刻に味わされていたものである、が、この度の日支事変に遭って見るとずっと年もとっているし、その立場に於ても甚《はなは》だ変ったものが多い。
四
つい、この夏、弥之助は信州の高原地で暫《しばら》くの間暮した。
彼は少年時代には相当に肥った丈夫な子供であったが、青年時代は色々の苦しい生活に遭《あ》って非常に健康を害してしまったが、その後修養につとめたせいか、また健康を取り戻し、寒暑共に余り頓着はしなかったが、漸《ようや》く老境に入りかけたせいか近来は夏がなかなか苦しい、殊に暑さと蚊《か》に攻められて著作をするというようなことは気が焦《じ》れてたまらない、それでこの頃から高原地へ安居を求める気になったのである、武州の八王子から上州の高崎まで八高線という田舎《いなか》鉄道が近頃出来上った、この村から汽車で高原地へ行く場合には、この線路をとるのが一番都合がよい、この程、この田舎鉄道の中で、高崎の聯隊へ召集される兵士の幾人かと乗り合せたことがあった、至る処の駅で前に云ったような盛んな送別の行列であった、こんどの召集された兵達は皆相当の年配であって、年は三十五六前後、何れも妻があり子供の二三人もあり、それからそれぞれ一家の業にいそしんでいる人達であった。斯ういう人達が駅から駅へと数を加えて五六名ばかり弥之助の隣りの席で固まって話し出した、何れも初対面の人達ではあるけれども、話し合っている間にトテモ親密な間になってしまったのも無理は無い、死なば諸共《もろとも》という気分が、こういう場合ほど濃《こま》やかに湧《わ》き立つ時はあるまい、年功を経た応召兵達の胸を打割った正直な述懐を聞くことが出来た、この辺の本当の土着の農夫としての一人は「もうこれだけにして貰
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