う方針でやって見度いものだ、それで相当の改良進歩が行われ、収支経済もつぐなうという道がなければなるまいと考えて居る。

       三十一

 百姓弥之助はうどん[#「うどん」に傍点]を作る事も、そば[#「そば」に傍点]を打つ事も心得て居る。
 うどん粉というものは、以前は小麦を水車にやって挽《ひ》かせたものであるが、近頃は電燈応用の製粉所へやれば、手取早く粉にして呉れる、この水車製粉と電力製粉とを、比較研究して見たわけではないが、昔の水車製粉の甘味は何分忘れられない、米のつき上げに於てもそうである、砂を入れるとか入れないとかいう問題は別として、水車づきの米が何分安心の出来る気分を与える。
 手打うどんを作る段取りは、小麦粉を若干すくい取って、こね[#「こね」に傍点]鉢の中に入れ適当にこね上げて、それを三尺四方程ののし[#「のし」に傍点]板の上にのせ、めん棒でのし広げて、畳んで切って熱湯の中へ入れて、ゆで上げれば、それでうどんは出来上ったのであるが、これをざる[#「ざる」に傍点]に取って別に汁をこしらえて、盛りを食べるようにして食べるのが普通の方法である。それからこの地方ではもう一つ俗に「のし込み」というのがある、これはうどんをのして畳んで切って、熱湯の鍋の中へ入れる迄は、前と同じ事だが、それを揚げて取らないで、そのまま野菜を入れ醤油を入れて、煮込みにしてしまうのである。この「のし込み」というのは云わば精進《しょうじん》のシチューで、原料たる小麦粉が漂白したメリケン粉と違い、日本小麦の持つ原始的の味わいと営養価は、こういう種類の手打ちによって、最もよく発揮される、弥之助は毎日でもこのうどんなり、そばなりを手打ちをして食べ度いと思うけれども、何分手数と時間がかかるので、一人者の弥之助には、そうそうはやりきれない。

       三十二

 一体|総《すべ》ての物と事に相対性原理が行われて居るもので、絶対的に見ると大きな誤算が生ずるものである。同じ容積同じ価格の物が決して同一効果を生じない、例えば、デパートで大量生産的にこしらえたせんべいと、或る小店で手塩にかけてこしらえたせんべいとは、その価格や斤量《きんりょう》は同じ事でも、営養価が違う、また食器や金物類にしても信用ある独立店で買った方が、デパート物より品物が確かである。一がいには云えないけれども、大量製産物は手
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