》か開国かで、怪奇ではないが、複雑を極めた間にあって、一歩あやまれば、社稷《しゃしょく》が取返しのつかないことになる。志士仁人が往来し、一般人心がおびえているうちに、広い世間には極めて暢気千万《のんきせんばん》な奴もあればあるもので、道庵十八文の如きその一人。
 且つまた、媚態百出、風向きのいい方へ便乗《びんじょう》しようと、色目の使い通しな不都合な奴もあればあるもので、鐚公《びたこう》の如きがその一人。
 さても、山城の国、綴喜《つづき》の郡、田辺《たなべ》の里に逗留の道庵先生は、健斎老の取持ちで、何もございませんがと言って、上方名物のよき酒に、薪納豆《たきぎなっとう》を添えて振舞われたものですから、大いによろこびました。これは酬恩庵名物の一休禅師伝来、薪納豆というものだと聞かされて、道庵がなっとう[#「なっとう」に傍点]しました。
 道庵は、この機会に、一休禅師の研究をはじめることになりました。道庵は、一休は話せる男だと思い、一休の方では、道庵は知らないと言っている。いずれにしても、酔眼に人なき道庵も、一休禅師には一目《いちもく》ぐらいは置いているらしい。これから大阪へ行って、ひとつ親類のお墓参りもしてやらずばなるまいと、酒の間に口走ったところを見ると、大阪あたりに親類などはなかるべきはずの道庵が、変なことを言うと思って、問いただしてみると、大阪に永富独嘯庵《ながとみどくしょうあん》の墓があるから、それをひとつ訪ねてやろうと思ってるんだよ、と言う。してみると、永富独嘯庵なるものは、道庵の親類筋に当るのかも知れない。
 それはトニカクとして、この機会に道庵は酬恩庵をおとずれて、古蹟をたずね、筆蹟を見て、しきりに慈姑頭《くわいあたま》を振り立てました。山陽の書を見てくれの、崋山《かざん》の画を鑑定しろのと申込んで来る茶人もいたが、そんなのは一切、道庵の眼中になく、一休禅師の筆蹟だけは相当丹念に見ました。一休自筆の「狂雲集」というやつも見て、しきりに首をひねったり、その末期《まつご》の書だというのをひろげると、
[#ここから2字下げ]
須弥南畔
誰会我禅
虚堂来也
不直半銭
    東海純一休
[#ここで字下げ終わり]
と書いてある。同行の者がちょっと読みなやんでいるのを、道庵はスラスラと読んでしまいました、
[#ここから2字下げ]
須弥南畔《しゆみなんはん》
誰カ我ガ禅ヲ会《ゑ》スヤ
虚堂来也《きどうらいや》
半銭ニ直《あたひ》セズ
    東海純一休
[#ここで字下げ終わり]
 スラスラと読んでしまってから、慈姑頭を更に一倍振り立てて、
「諸方に一休の書と称せられるものが相当あるにはあるがね、あんまり感心しないよう。ところで、こいつはいいぜ、こりゃ、たしかに一休の書だよ。一休という奴ぁ、こういう字を書かなけりゃならねえ奴なんだ。これゃいいよ、句もなかなかいいよ。ただ、虚堂来也――素人《しろうと》はこれをキョドウと読みたがるが、いけねえよ、キドウと読まなくちゃいけねえ、ただこの虚堂来也がねえ、ちっとばかり小せえよ、道庵に言わせると、仏祖来也といきてえところなんだが、それはそれとして、この辞世の文句にもはじめてお目にかかるよ、一休名所図会(一休諸国物語の誤りならん)にも、辞世の句というのがいくつも出ているが、この文句は無《ね》え、名所図会のがニセ物で、これがホン物だ」
と言いました。道庵が多少ともに物を賞《ほ》めるということは、極めて少ない中のこれもその一つでございました。
 そうしているうちにも、お雪ちゃんの容体を見てやる親切は変りません。脈をとることになると忠実なもので、商売柄、健斎老を啓発することも少なくはありません。それから、健斎老が道庵に感心していることの一つは、そのふざけた中に、まじめな研究心が少しも衰えていないということです。見るもの、聞くもの、みんな箸《はし》をつけずには置かない、箸をつければ、みんな食ってしまわなければ置かない、という知識の貪食《どんしょく》ぶりには、遠近四方、敬服せざるを得ませんでした。
 しかし、うっかり敬服ばかりしていると、その次があぶない。一夕《いっせき》、道庵の声名を聞いて、京から名酒を取寄せて贈り越したものがあって、
「この地は、お茶にかけては日本一ですが、お酒の方はそうはゆきませんが、ここらあたりは少し飲めるかも知れません」
 道庵がその尾について、
「なるほど、お茶は、この界隈が宇治茶の本場だが、酒もどうして、なかなかばかにできねえ、いったい、上方は酒がよろしい、日本一のお茶も結構だが、日本一の酒は飲みてえな」
 それを言うと、土地の人が、
「では、近いうち、その日本一の酒というのを飲ませて進ぜましょう」
「そいつは耳よりだぜ、いったい、池田、伊丹《いたみ》なんぞと、大ざっぱに名乗りは聞くが、さあ、どれが日本一だと聞かれたら上方でも困るだろう、道庵も人に聞かれて、その点、常にいささかテレている、今度という今度は、ひとつ、京大阪の酒という酒を飲み抜いて、道庵先生御推賞、日本一という極《きわめ》をつけて帰りてえものだ」
「いや、それは先生を煩わすことなく、もう出来ておりますよ、日本一の酒という極めつきは……」
「おやおや、道庵の承認なしに酒の日本一をきめるなんて、不届な話だ、万一、道庵が不服を唱えたら、どうするつもりだろう、一番そいつの再検討をしてみてえ、その日本一の極めつきの酒というのは、いったい、なんという酒で、ドコから出ますねえ」
「これより少々南の方、河内の国の天野酒、これが日本一という定評《きわめ》になっております」
「うむ――河内の国の天野酒、聞いたことのある名だ、これはひとつ、道庵が再吟味をする必要がある」
と言って、その翌日、飄々《ひょうひょう》として出かけて帰らないところを見ると、河内の国までのしたのかも知れません。

         七十六

 さて、江戸の方面に於ける軟派、鐚《びた》は鐚で、このごろ少し憂鬱《ゆううつ》になっている。
 鐚としては、せっかくのヒットたる芸娼院の方も、開店休業の姿だから、なんとかせねばなるまいが、いやはや、手をつけてみると、そのややこしいこと、それで少々気を腐らせているという次第です。
 芸娼の芸娼たる所以《ゆえん》のものを説いて聞かせても、世間はなかなかわかってくれない。とりあえず鐚の方へ持ちこまれた苦情のうちの一つに――
 いやしくも芸と名のつく以上、ナゼ役者を入れない、芸人の王たる役者を入れないとはなにごとだ――と力んで来た!
 それから、芸事の芸事たるめききというものは、その道のものがしなければならない、金茶や木口の輩《やから》が、御右筆《ごゆうひつ》の下っぱのおっちょこちょいを相手に、人選をするとは怪しからん。
 と言って、膝詰めで来たものもあれば、ビタちゃんのお袖にすがって、ぜっぴ、お刺身のツマになりともありつきたい、と歎願に及んで来た奴もある。
 その辺は、ビタちゃんだって心得たものなんだが、何を言うにもそれ、役者の方から言ってみるてえと、愚左衛門を入れれば、轟四郎《ごうしろう》が納まらないし、毒五郎をのけて戸団次に戸惑いをさせるわけにもいかねえ、そうなるとまた、土右衛門《つちえもん》や貉之助《むじなのすけ》の方のひいきが承知しない。トカク、これは難物だから、後廻し、後廻し。
 絵かきの方は、昔から相場附けがほぼきまっているから、これはわりあいに手なずけ易《やす》いが、文書《ぶんか》きの方はトカク店が新しいだけに、品《しな》がややこしくていけねえ。
 絵かきが五十八人もいるのに、文書きが十人じゃああたじけ[#「あたじけ」に傍点]ねえ、とムクれる奴には、刺身のツマとしてお下《さが》りをあてがって置いたが、このごろ、木口勘兵衛尉源丁馬と、金茶金十郎とを入れろ、ぜっぴと言って推薦して来た奴があるが、こいつは鐚も買えねえよ。
 金茶や木口は、武芸もやっぱり芸のうちだから芸娼院へ入れろ、刺身のツマでもいいから入れろ、と捻《ね》じ込んで来ているのだが、どうも、さしも悪食《あくじき》のビタにも、こいつはちっと買えねえよ。
 なるほど、武芸も芸には違いないが、あいつらの芸は下町の芸で、デモ倉流盛んな時はデモ倉流、プロ亀派が景気のいい時はプロ亀派、勤王がよければ勤王、佐幕がよければ佐幕で、風向き次第、どっちでも御用をつとめる大道武芸者だから、本当の芸人の中へは加えられねえ、大道芸人の方では、あいつらが大御所面で納まっているけれども、公儀には柳生流というお留流儀《とめりゅうぎ》もあれば、実力第一小野派一刀流という、れっき[#「れっき」に傍点]としたのがある、木口や金茶の大御所流を入れることは、三下奴《さんしたやっこ》ならば知らぬこと、ビタちゃんとしてはいささか気がさすねえ、なあに、御祐筆《ごゆうひつ》の方へ申し込めば、御祐筆はみんなお人よしぞろいだから、ビタちゃんの言うなりにはなるがね、ビタちゃんの眼鏡の貫禄として、そう安売りはできねえ。
 鐚《びた》は、とつ、おいつ、こんなことを言って、自宅にくすぶって気を腐らせていると、溝板《どぶいた》を荒々しく蹴鳴らして、
「鐚公、いるか」
 その声は、まさしく木口勘兵衛尉源丁馬。
「来たな」
と鐚は思いました。
 ガラリと腰高障子を引きあけた木口勘兵衛尉源丁馬は、朱鞘《しゅざや》の大小の、ことにイカついのを差しおろし、高山彦九郎もどきの大きな包を背負い込んで、割鍋を叩くような大昔を振立て、
「鐚、いたな、今日はひとつ、てめえに膝詰談判に来たんだが、このお爺《とっ》さんをひとつ、芸娼院の人別に入れてくんな、これは木曾の藤兄《ふじあに》いといって、姪《めい》を孕《はら》ませて子まで産ませて追ん出した上に、それを板下《はんした》に書いて売出した当代の甘いおやじさんだ、文書きの方では古顔なんだが、近ごろ拙者の子分同様になりやんした、よろしく頼む」
 高飛車に出られたので、鐚もあっけに取られていると、
「さあ、お爺《とっ》さん、こっちへ来て、芸娼院の人別に入れてもらいねえよ、これがお安いところの鐚公というおっちょこちょいだ、お見知り置きなせえ」
と言うから、鐚が木口の後ろを見ると、いかにも人のよさそうな老爺《おやじ》が一人、なべーんとした面《かお》をして、しょんぼりと控えている。その姿を見て、鐚が、なるほど姪を孕まして、板下に書いて売出しそうなおやじだ、至極お人よしだなと思いました。だが、いい年をして、木口あたりの手下になって、頭を下げに来る、老爺の人のよい姿を見ると、鐚も物の哀れを感じないわけにはゆきません。
 木口の後ろには、まだ、これを親分と頼むイカモノが多分に控えている。これらを押並べて、
「さあ、面《つら》が揃《そろ》ったら、ひとつここでパチリとやってくんな」
 当時、舶来の珍しいはやどり機械を据えた三下奴――
「爺《とっ》つぁん、お前《めえ》も下っぱの方へ坐りな」
 信州から来た木曾の藤爺《ふじじい》さんを、下っぱに押据えて、木口勘兵衛尉源丁馬が傲然《ごうぜん》として正座に構えたところを見ると、さすがの鐚も悲鳴をあげ、
「トテモ受けきれねえ」
と言って、逃げ出してしまいました。
 下駄をひっ提《さ》げて、溝板のところをほうほうの体《てい》で逃げ出した鐚助――
「どうもはや、木口勘兵衛ときては、さしもの鐚も受けきれねえよ、あいつ、イカモノ作りの四国猿のくせに、いやにアブク銭の銭廻りがいいもんだから、トカク銭の力で、八方|袖《そで》の下撫斬流《したなでぎりりゅう》と来るから受けきれねえ」

         七十七

 勝安房守が二条城で任官して後のこと、近藤勇と、土方歳三の二人が、慷慨淋漓《こうがいりんり》として、二条城の天主台の上に立って、洛中洛外の大観を見澄ましておりましたが、やがて近藤が言うことには、
「どうだ、土方、おれに十万石を与えれば、ここにいて天下を定めてしまうが、あったら城に主がないなあ」
 そうすると、土方がこれに答えて、
「あえて十万石とは言わない、五千の兵
前へ 次へ
全39ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング