、御奇特なことで」
と答えながら慢心和尚が、その帳面を手に取って見ますと、
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「百姓大腹帳」
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と書いてあります。二つ折|長綴《ながとじ》の部厚の帳面で、俗に「大福帳」型の帳面でありましたが、大福帳をここには「大腹帳」と書いたところに趣意がありそうなのです。果して武州刎村の百姓弥之助と名乗る男は、その「大腹」の字面を指してから次のように語りました。
「只今もおっしゃる通り、近ごろは戦争や饑饉の心配から、ドコへ行っても食を控えろ、食物を食べ過ぎるな、節食をしろ、節米をしろと、専《もっぱ》らこのように申し触らされておりますが、わしはそれと違いまして、百姓は物をうんと食え、そうして腹を充分にこしらえろ、非常の災難が来る時こそ、腹をこしらえて、度胸を据えなければならない、腹が減っては戦《いくさ》ができない道理、ですから、ウンと食べて、ウンと働きなさいと、こういう勧化《かんげ》のために、この通り百姓大腹帳というのをこしらえて、宣伝を致して歩くのでございますが、相手にされないで困っているんでございます。つまりが、わしが百姓だから、ばかにする者が多いというわけなんでしてね。わしが、こんなぶっきらぼうの百姓でなく、黄門様のお微行《しのび》であるとか、お大名の名代《みょうだい》、聖堂の先生とでもいった経歴がありますと、みんな感心して聞くんでございますが、なあに、あいつは百姓だ、百姓が何を言うと、頭から取合ってくれません。そこで、わしは考えました、百姓に百姓の心得を説いて聞かすには、まず『百姓』という文字の意義から説いて聞かせなければならないと。このごろでは、もっぱら、百姓の名の起りから説いて聞かせているというような次第なんですが、これをまあひとつお読み下さいまし」
と言って、武州刎村の百姓弥之助と名乗る男が、大腹帳の開巻第一を開いて、慢心和尚の前に示しました。
和尚が受取って、それを読んでみると、
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「そもそも『百姓』といふは、支那四千年の古典『書経』並びに『詩経』等に見ゆるを最初とすべし。『百姓』とは、あまねく『人民』といふ意味にして、これを農耕者に限りたる約束は更になし。されば天子以外のものは皆百姓なり。
日本に於ても、古代はこれと典故を同じうしたれば、歴代の天皇、皆直接[#「直接」は底本では「直後」]に人民を呼ぶに『百姓』の語を以てし給ふ。愚、ひそかに数へ上げ奉るに、日本書紀三十巻の中に於て、天子おんみづから『百姓』の語を以て呼びかけ給へるところ七十四ヶ所に及ぶ。殊に、第十六代仁徳天皇に於かれては、
『君ハ百姓ヲ以テ本トナス』
『百姓貧シキハ則《すなは》チ朕《ちん》ノ貧シキナリ、百姓ノ富メルハ則チ朕ノ富メルナリ』
とまで仰せらる。
まことに、日本は天皇の国にして百姓の国|也《なり》。天皇は親にして百姓は子也。関白、将軍、国主、郡司、諸々《もろもろ》の門閥は皆後世この百姓の間より出でて、或は国家に功あり、或は国家に害を為《な》す。功あるは即ち天皇と百姓の間を助くるなり。害あるは則ち天皇と百姓の間を紊《みだ》すなり。
中世以後に漸く『百姓』の名を農耕者に限るやうになり行くと共に、これに下賤軽蔑の色を附与したるは、まさしく中間勢力の横暴の致すところなれば、日本の政治の革新は、天皇と百姓の間を、古《いにしへ》の美風に帰すことなり。
かく、百姓は即ち万民の意味にして、農耕業者に限りたる約束は更になしといへども、百姓の基本業が則ち農耕に存すること、万世|渝《かは》ることあるべからざる也。
それ、如何《いか》に世態変化するとも、人は衣食住なくして生くること能《あた》はざるなり。而《しか》して衣食住の生産は農業を待ち、これを為すより外にその道あるべからず。政治は即ちこの生産を助長するの道にして、商工は即ちこの生産を融通するの道也。根幹を侮りて、枝葉のみを繁茂せしむる国は危し。
されば日本の百姓たるものは、自らが天皇の大御宝《おほみたから》たることを畏《かしこ》み、専《もつぱ》らこの道をつとめ、国に三年の蓄へあり、人に三年の糧《かて》あり、而して後に四方経営を隆《さか》んにすべきなり。而して後に通商貿易を盛んになすべきなり。本を忘れて末に走ることあるべからず。
近代は国難内外に起りて、志士東西に奔走すといへども、国本培養に心を注ぐの士、極めて乏しきは慨すべく歎ずべし。故に良き百姓は、世上の空言虚語に惑はされず、大いに食ひて大いに働き、自ら三年の糧を貯ふると共に、国に三年の糧を捧ぐることを本意と心得べきなり。百姓大腹なれば国富みて兵強く、百姓空腹ならば国貧にして兵弱し。つとめざる可《べ》けんや」
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これを読み了《おわ》った慢心和尚は大いに感心して、
「なるほど、なるほど――その通り、これに違いない、百姓の本分を知らせるには、『百姓』の文字から説いて聞かすが本筋じゃ、自分が百姓のくせに、百姓百姓と人を軽蔑する奴から退治せにゃいかん、天皇様と百姓の間をさまたげる、もろもろの寄生害虫から退治せにゃ、国は治まるものではござらぬ、百姓大腹ナレバ国富ミテ兵強ク、百姓空腹ナラバ国貧ニシテ兵弱シ、ツトメザル可ケンヤ――大賛成!」
慢心和尚が双手《もろて》を挙げて賛成したものですから、百姓弥之助も大いによろこびました。
七十四
その前後、京都の二条城で勝麟太郎の受爵の式が行われました。
夢酔道人の丹精むなしからず、あっぱれ幕府旗下の麒麟児《きりんじ》として、徳川の興亡を肩にかけて起つ人となり、ここに、受爵の恩命が伝わること偶然ならずと言わなければなりません。これより先、受爵の内命が伝わった時、勝は考えました、
「さて、受爵には何の国を所望したものか、願わくば日本一の小国を願いたい」
そこで、安房守《あわのかみ》が選まれました。大国を名乗ったところで大国の主となるわけではなく、小国を冒したからとて器量が小さくなるわけではないのだが、勝がさらに小国を所望したのは、この人特有の皮肉がさせる業らしい。この人は、後年、功成り名遂げて、維新の功臣の中に加えられ、ここに再び明治政府の下に受爵の恩命が行われるの際、子爵に叙せらるるの風聞を伝え聞いて、
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今までは人並なりと思ひしに
五尺に足らぬ四尺なりけり
[#ここで字下げ終わり]
と歌をよんで、さてこそ伯爵に叙せられたという伝説のあるくらいの人ですから、そういう人を食った性癖が、おのずから小国を好んで所望することになったらしい。
それはさて置き、当時、叙爵の儀が済んでから、控室に於て、諸士を相手の気焔の中に次のようなのがありました、
「政治家の秘訣《ひけつ》はなにもないよ、ただ誠心誠意の四字ばかりだよ――内政のことにしろ、この秘訣を知らないから、どうも杓子定規《しゃくしじょうぎ》で、さっぱり妙味というものがない。徳川氏のやり方は、いま言った四字の秘訣を体認して、よく民を親しんで、実地に適応する政治をやったものだ、その重んずるところは人にあって、法にあるのではない、八代将軍の時に諸法度《しょはっと》の類もやっと出来上ったくらいだが、それにしても北条時代の式目が土台になっている、あの貞永式目《じょうえいしきもく》というのが深く人心に染《し》み込んでいるものであり、なにもわざわざアクドイ新体制を作って民を惑わすがものはない、この辺をよく注意したものさ」
「東照宮の如きも、駿府に隠居をされた後でも、ただ、じーっとして城内に引籠《ひきこも》っていられたわけではない、駿府の近傍の庄屋とか、古老とかいうのを集めては、碁の会を催して、輪番にそれらの人々の家へ碁を打ちに行かれたものだ。あの辺の旧家には、東照宮が来て碁を打たれた座敷だというのがいまだに残っているよ。道楽で碁を打つんじゃない、ああしているうちに、偽らざる民情が聞けるからだ」
「日本国中で民政のよく行届いたところは、まず甲州と、尾州と、小田原の三カ所だろうよ、信玄や、信長や、早雲の遺徳はまだこの三カ所の人民に慕われているらしい」
「信長という男は、さすがに天下に大望を持っていただけあって、民政のことには深く意を用いて、租税を軽くし、民力を養い、大いに武を天下に用うるの実力を蓄えたと見える、今日、尾州に行ってよく吟味してみなさい、当時の善政良法が、今なお歴々として残っているから」
「信玄がただの武将でなかったことは、ひとたび甲州に行けばわかる、見なさい、彼地の人は信玄を神様として信仰しているのだ、これは当時民政がよく行届いて、人民がよく心服していた証拠ではないか。その兵法の如きも、規律あり、節制ある当今の西洋流と少しも違わない、近頃まで八王子に、信玄当時の槍法が残っていて、毎年二度、その槍法の調練をすることになっていたが、その槍を使うのを見ると、近頃のように、お面お胴というふうな、個人的の勝負ではなくて、大勢の人が一様に槍先を揃えて、えい、えい、えい、と声をかけながら、初めは緩《ゆる》やかに、次第次第に急になり、漸く敵に近づくと、一斉に槍先を揃えて敵陣へ突貫するのだ、ちょっと見たところでは甚だ迂闊《うかつ》のようだが、おれは後で西洋の操練を習ってから、はじめてこの法のすこぶる実用に叶《かな》っていることを知った」
「北条早雲という男も、なかなかの傑物であったに相違ない、赤手空拳でもって、関八州を横領し、うまく人心を収攬《しゅうらん》したのはなかなかの手腕家だ。当時、関八州は管領の所領であって、万事京都風で、小むずかしいことばかりであった、ちょうど今時はやりの繁文縟礼《はんぶんじょくれい》であったのだ、そこへ早雲が来て、この繁文縟礼の弊風を一掃してしまい、また苛税を免じて民力の休養をはかった、つまりこれで、うまく治めたのだ。徳川時代には、小田原附近から関八州へかけてが、全国中でいちばん地租の安いところであったが、これは全くの早雲の余沢《よたく》だ」
「それで、北条の亡んだ後に、徳川氏が駿遠参の故土から、この関八州へ移封されたのだが、もともと租税の安いところであったから、徳川氏の方では非常に迷惑だったのだ。太閤という男は、なかなかの狡猾者《こうかつもの》で、よくこの事情を承知しておりながら、いわゆる、その名を与えてその実を奪うの政策に出でたのだ。しかし、そこはさすがに徳川氏だ、少しも早雲の遺法を崩《くず》さず、従来の仕来《しきた》りに従って、これを治めたのだ」
「天下の富を以てして、天下の経済に困るという理窟はないはずだ、いにしえの英雄はみな経済のために苦心したよ。織田信長は経済上の着眼が周密であったから、六雄八将に頭《かしら》となり得たのさ。南朝の政治も、北朝の細川頼之の経済のために倒れたのだ」
「おれがはじめてアメリカへ行って帰った時に、御老中から、『其方《そのほう》は一種の眼光を具《そな》えた人物であるから、さだめて異国へ渡ってから、何か眼をつけたことがあるだろう、それを詳《つまび》らかに申し述べよ』とのことであったから、おれは、『人間のすることは、ドコへ行ったって、そう変るものじゃありません、アメリカだって御同様ですよ』と言ったが、再三再四、問われるから、『左様、アメリカでは、政府でも、民間でも、すべて人の上に立つ者は、みんな相当りこう[#「りこう」に傍点]でございます、この点ばっかりが、日本と反対のように心得ます』と言ったら御老中が眼を円くして、『この無礼者め、控えおろう』と叱ったっけ、ハハハハハハ……」
「支那人は、いったい気分が大きい、支那人は、天子が代ろうが、戦争に負けようが、ほとんど馬耳東風で、はあ、天子が代ったのか、はあ、ドコが勝ったのか、など言って平気である。ソレもそのはずさ、一つ帝室が亡んで、他の皇帝が代ろうが、国が亡んで他の領分になろうが、全体の社会は依然として旧態を存しているのだからノー」
七十五
かように天下有事、幕政維持か、王政復古かの瀬戸際――それに外国の難題が、攘夷《じょうい
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